投稿

8月, 2025の投稿を表示しています

岡倉天心。日本の美を再発見、『茶の本』。東京藝術大学の設立に参加。9月2日没

イメージ
岡倉天心。日本の美を再発見、 『茶の本』。 東京 藝術大学の設立に参加。9月2日没  岡倉天心 ・ 1863年2月14日。横浜~1913年9月2日没。50歳 岡倉天心は、フェノロサ(Fenollosa。アメリカ人東洋美術史家)に師事し、 伝統美術の復興につとめます。 【※】 フェノロサ学会   1979年設立 東京藝術大学の設立に参画し、校長 をつとめます。 ボストン美術館の中国・日本美術部長もつとめます。 弟子の 橋本雅邦、横山大観 らと日本美術院を創設 します。 日米間を往復勤務しながら、東洋美術について講演します。 【※】橋本雅邦    父は川越藩の御用絵師 『茶の本』などを英文で出版 します。 岡倉天心は、インドのタゴールとも交流 します。 【名言】 「芸術が最終的に完成した型としてあらわれるというようなことはない。 芸術とは絶えざる成長である」 【+23】 日本人の『美意識』がわかる!〜武士道と並び称される世界的名著〜 茶の本|岡倉天心    【17分】日本人がすんごく英語ができる!と言われた時代---「英語達人」岡倉天心はどれくらいすごかったか---名著ご紹介・斎藤兆史『英語達人列伝』【井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル 第109回 】 天心記念   五浦(いづら)美術館   北茨城市大津町 橋本雅邦:近代日本画の母   橋本雅邦は、岡倉天心を助ける。川越市出身。 特別展「日本美術をひも解く―皇室、美の玉手箱」 《蒙古襲来絵詞》    狩野永徳筆《唐獅子図屏風》(前期展示①) 伊藤若冲の代表作  《動植綵絵》 日程2022年8月6日(土) - 2022年9月25日(日)

ルイ14世。フランス絶対王政 全盛期の太陽王。9月1日没

イメージ
ルイ14世。フランス絶対王政 全盛期の太陽王。9月1日没  ルイ14世 ・1643年5月14日~1715年9月1日没。76歳    ルイ14世は、「朕は国家なり」と言って、 桓武天皇のように親政をおこない、 「太陽王」とよばれます。  親政とは、 君主がみずから政治を行うことです。 ルイ14世の対外戦争 対外戦争をオランダ、イギリス、スペインに 戦争をしかけます 。  豪華な ベルサイユ宮殿 にも巨費をかけます。  新教徒を弾圧したため、 商工業者は国外に 出てしまいます。  ヴェルサイユ宮殿 72年もの間、フランス国王として君臨 しました。  国民は重税に苦しみ、反発し、 1789年のフランス革命 の端緒となります。  フランスは、      地方分権制 から、            国王の 絶対王政 、                 市民による フランス革命 を経て、                        近代国家 へ発展して来ました。 ルイ14世がきずいた基盤が今のフランスにも息づいています。 【30分】不可能を可能にした偉大な王】―ルイ14世   執行草舟(しぎょう そうしゅう) 【名言】 「“« L'État, c'est moi »    レタ  セ モア   国家、それは朕(ちん)なり    The state、that's me.  」 絶対王政 〜パリの中心で「朕は国家なり」と叫んだルイ14世〜   【+20】

宗祇(そうぎ)。連歌「河越千句」をもよおす。 9月1日没。 <川越の先人

イメージ
宗祇(そうぎ)。連歌「河越千句」をもよおす。 9月1日没。 <川越の先人 飯尾 宗祇 ・1421年。和歌山~1502年9月1日没。81歳。箱根町 飯尾宗祇 (いいお そうぎ)は、 室町後期の連歌師です。 連歌(れんが)の黄金時代をきずきます。 ・ 和歌の 西行 (さいぎょう。1118- 1190)          ↓ ・ 連歌の 宗祇( 1421-1502)          ↓ ・ 俳句の 芭蕉 ( 1644- 1694) 漂泊の歌人:和歌の 西行⇒ 連歌の宗祇⇒ 俳句の芭蕉 西行の跡を、宗祇、芭蕉が追います。 俳句は、芭蕉が尊敬する宗祇の連歌から はじまりました。 連歌「河越千句」が残っています。 川越文学史の記念碑 です。 【※】河越は江戸時代から川越に 1470年に3日間、 宗祇を迎えて、 太田道灌の父・道真 が、 関東武家を招いて 川越城内で もよおします。 この頃は応仁の乱の時代です。      応仁の乱 (おうにんのらん)は、 1467年~1478年までの約11年間にわたった内乱 です。 (※  【受験】    1467  ひとよ むなしい 応仁の乱) 京は、荒れ果て、そのため かえって 地方に京文化が移り ました。 室町幕府の力はおとろえ、 100年間の戦国時代へ とうつります。 「河越千句」 千句のうち最初の3句をご紹介します。 1 発句(ほっく、第1の句)は、 この会の主客・連歌師の心敬がよみました。 発句と脇句(第2の句)は、その場の情景を歌います。 ♪♪~ < 梅園に  草木をなせる  匂ひかな > 2 脇句は主催者の太田道真がうたいます。 ♪♪~ < 庭白妙の  雪の春風 > 3 第3の句以降は、虚構でかまいません。 宗祇の番です。 ♪♪~ <うぐいすの  声は外山(とやま)の  陰冴(かげさ)えて> 4 鑑賞するには、発句と脇句を足して味わいます。 ♪♪~ < 梅園に  草木をなせる  匂ひかな 庭白妙の  雪の春風 >...

ベルツ Bälz。日本温泉学、近代医学の父。8月31日没

イメージ
ベルツ   Bälz 。日本温泉学、近代医学の父。8月31日没  ベルツ  Bälz ・ベルツ     1849年1月13日---1913年8月31日  64歳没 ベルツは、ドイツの医師です。 1876年から27年間、東京大学医学部で生理学・内科学を教えました。 ベルツは草津温泉を世界三大温泉とたたえました。 ヒビ、アカギレの薬「ベルツ水」をつくったりしました。 ベルツは日本温泉学の父。伊香保温泉の恩人 ベルツ:「日本人は自文化に誇りを持ち、大切に」 【9分】エルヴィン・フォン・ベルツ 

大河内(おおこうち)正敏。 理化学研究所長を25年間

イメージ
大河内(おおこうち)正敏。    理化学研究所長を25年間 大河内 正敏 ・大河内(おおこうち)正敏(まさとし) 1878(明治11年)12.06--1952(昭和27)8.29  73歳 理化学研究所の理事長を務めた大河内正敏は、 川越藩の名君・松平信綱の子孫の家系です。 理化学研究所(理研)の3代目所長を25年間つとめました。 東大工学部卒で、貴族院議員でした。 大正天皇のご学友でした。 明治になり、「松平」を返上しました。 孫には女優の河内桃子がいます。 田中角栄を引き立てました。   理研では、傘下企業60数社を数える理研コンツェルンを形成しました。 理研の黄金期を作り上げた立役者です。 3分でわかる大河内正敏【理化学研究所の立役者】

田沼意次(おきつぐ)。重商主義への転換をはかろうとした先駆者。8月25日没

イメージ
田沼意次(おきつぐ)。重商主義への転換をはかろうとした先駆者。8月25日没 田沼 意次  ・1719年9月11日 -  1788年8月25日  68歳 田沼意次は、重商主義への転換をはかります。 近代日本の先駆者 です。 9代 徳川家重(いえしげ)の小姓(こしょう)から身をおこし、 10代 徳川 家治の側用人(そばようにん)、さらに老中(ろうじゅう) に進みます。 20年間、権勢をふるいます。 商人の 財力で 印旛沼(いんばぬま) や 蝦夷 地(えぞち) の 開拓 を計画します。 ナマコやアワビの 海産 物の 輸出 を 奨励 します。 商工業者に 特権 をあたえ 税 をとります。 経済を米中心から 商業中心に移そうする重商主義政策 は、 保守層から大反発を受けます。 江戸時代の享保の改革、寛政の改革、天保の改革は、 いずれも 重農主義 でした。 保守層にとって、 重商主義は士農工商の社会階層をこわすこと であり、 最下位の「商」を幕府が支援することは、 世の秩序を乱す悪行 だととらえました。 (cf. スマホ、パソコンを、「紙に戻せ」) 支配層は、田沼意次を失脚に追い込みました。 このころ、 江戸 の大火、 浅間 山の 噴火、 津波、 地震 などの 災害 がつづき, 天明 の飢饉 がおこって、 百姓一揆 や打ちこわしがはげしくなります。 田沼 意次 は 失脚します。 【16分】田沼意次の政治について  【ショート】 田沼意次 再評価     【田沼意次】賄賂政治家から経済改革者へ 田沼意次「誤解された改革者」 田沼意次  商業と財政の改革

太田道灌。江戸城を築いた武将。Ōta Dōkan。8月25日没 <川越の先人

イメージ
太田道灌。江戸城を築いた武将。Ōta Dōkan。8月25日没。<川越の先人 太田道灌 ・1432年~ 1486年8月25日没。54歳。室町時代後期 太田道灌は、室町時代の武将です。 江戸時代の人ではありません   1457年に江戸城、河越城を築きました。 【受験】1457年  道灌 「石粉(1457)にして道灌、江戸城」 【※】「河越」 と 「川越」 「河越」は、江戸時代から「川越」になりました。 道灌は、築城、軍略、和歌にすぐれ、 主家の扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし)のためにつくしました。 【※】扇谷(おうぎがやつ) 扇のように谷が入りくんだ鎌倉の地形を言います。 30数回いくさをして一度も負けたことがない名将でした。 しかし、主君・上杉定正に殺されました。 【※】扇谷上杉 扇谷上杉は、鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)から生まれました。 川越市役所前の太田道灌 川越市役所前に銅像が立っています。 北方からの古河公方(くぼう)の南進を防ぐために、 川越城、岩槻城、江戸城を築きました。 そのころ江戸城は、小田原城の支城でした。   「七重八重  花はさけども  山吹やまぶきの   みのひとつだに  なきぞ悲しき」で有名です。 【名言】 「急がずば  ぬれざらましを 旅人の  あとより晴るる 野路の村雨」 ・・・・・・・・・・・   【+2】   詩吟 「太田道灌 蓑を借るの図に題す」   孤鞍衝雨叩茅茨    /孤鞍(こあん)  雨を衝いて  茅茨(ぼうし)を叩く 少女爲遺花一枝    /少女  爲に遺(おく)る  花一枝(いっし) 少女不言花不語    /少女は言わず  花語らず 英雄心緒亂如絲    /英雄の心緒(しんしょ)  亂れて絲の如し < 訳 > たった一人馬に乗ってにわか雨の中を進んでいくと 茅葺屋根の小屋があったので、門を叩いた。 出てきた少女は蓑は貸してくれず、花を一枝差し出した。 少女は何も言わない。花は何も...

酒井忠勝は、川越藩 2代藩主から若狭(わかさ)小浜の初代藩主へ <小浜

イメージ
 酒井忠勝は、川越藩 2代藩主から若狭小浜の初代藩主へ    <小浜     小浜市役所前の酒井忠勝  ・1587年7月21日-1662年8月25日小浜市。76歳 【1分】登城行列スタート。酒井忠勝公が、神楽坂を練り歩いております。 川越藩 2代藩主・酒井忠勝は、 31年間にわたり3代 徳川家光に仕えました。 徳川家光は、自分の 「 右手は酒井忠勝、左手は松平信綱 」 といいました。 酒井忠勝は、老中、大老の要職につきました。 1607年、川越・石原のささら獅子舞が、 川越の観音寺を中心に始まります。 1634年、酒井忠勝は若狭小浜城へ国替となりました。 京都に近く、出世で~す。 酒井忠勝は、 獅子舞を愛好するあまり雌雄2頭を携えて行きました。      石原のささら獅子舞   【動画】 3獅子舞は、男2、女1からなります。 獅子舞は小浜の伝統行事になっています。 川越、小浜は姉妹都市です。 現在の皇室は酒井忠勝の子孫です。 酒井忠勝は 小浜神社に 主祭神として祀られています。

小林虎三郎。「米百俵」、教育の精神で長岡の未来をつくる。8月24日没

イメージ
小林虎三郎。「米百俵」、教育の精神で長岡の未来をつくる。8月24日没 小林虎三郎 ・1828年9月26日。越後の長岡~1877年8月24日没。49歳 長岡市 北越戊辰(ほくえつ ぼしん)戦争 の戦火で、 長岡は廃虚と化しました。 藩士たちは、食うや食わずの生活をおくっていました。 【※】 北越戊辰(ほくえつ ぼしん)戦争ゆかりの地   長岡藩の窮乏を見かねて 友藩から 救援米 百俵が贈られてきました。 ところが、小林虎三郎は 皆の反対を押し切って、 「この百俵の米は、文武両道に必要な学校の設立にあてる」 と言いはなちました。 新生 長岡のため、 百俵の米を学校設立のために売却 しました。 この故事は 山本有三の戯曲『米百俵』 により 知られることになりました。 英訳もでています。 小林虎三郎は、 佐久間象山の門下で、 吉田松陰(寅次郎)とならんで、 「象門の二虎(しょうもん の にこ)」 と称せられるほど学問に秀でていました。 17歳で藩校の助教をつとめました。 「常在戦場」の日本に必要なのは、 教育にお金をかけることです。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 【※】 10万石以下の小藩には、学問の盛んな藩が多い 長岡藩をはじめ、越前の大野藩、石見(いわみ)の津和野藩などがそうです。 大藩に対抗して存在を示すには、 学問が格好の題材でした。 偉い医者や学者を出すと、殿様は江戸城で大いばりできた からです。 【2分】まんがふるさと長岡の先人「小林虎三郎」   長岡市 【10分】  小林虎三郎「米百俵」     【※】 長岡の逸材 長岡は逸材を生んでいます。 良寛:禅僧 河合継之助(つぎのすけ)    長岡藩軍事総督 山本五十六    連合艦隊司令長官 小林虎三郎    米百俵の主人公 井上円了     東洋大学の創設者 小金井良精(よしきよ)    人類学者。 母は小林虎三郎の妹。妻は森鴎外の妹。 作家の星新一は孫 堀口大學    詩人 上杉謙信     尾城の城主として、青年期を過ごす *    ...