- 「脂汗を流す中国首脳部」
- 「日本は世界の光」
- 「いま日本は滅びつつある」
- 「いま日本は滅びつつある」
- 「いま日本は滅びつつある」
- 「若者と老人の根性を正したい」
- 「世界第二位の経済力は江戸時代に蓄えられた」
- 「江戸は町人が主役の時代だった」
- 「庶民の力が世界的な芸術を生みだした」
- 「江戸は世界最大の壮麗な都市だった」
- 「観光・飛脚・出版が盛んだった」
- 「75万人に、わずか12人の同心と300人余の岡引きと下引き」
- 「儀礼が律する清潔な循環型社会」
- 「大江戸千六百六十八町」
- 日本語では「こころ」がもっとも多く使われていた
- 「生まれながらの自制心」
- 「三公七民で収穫量が四倍に」
- 「遊び好きと“江戸四天王”」
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「脂汗を流す中国首脳部」
中国は人類の歴史で、最後の植民地帝国である。
20世紀は植民地帝国が解体した世紀だった。第1次大戦によって、連合軍に対して敗れたカイゼル皇帝のドイツ帝国―アフリカからアジアまで領土を持っていた―と、ドイツと同盟して敗れたトルコ帝国が解体した。それまでトルコ帝国はアフリカ北部からペルシャ湾岸まで支配していたのに、広大な領地を失った。
第2次大戦は大日本帝国、イギリス、フランス、オランダ、イタリア、ベルギー、スペイン、ポルトガルをはじめとする植民地帝国を解体した。冷戦が終わると1991年に、ソ連という大帝国が崩壊してしまった。
今日、地上に残っている最後の帝国が中国だ。満族の国である満州、モンゴル族の内蒙古、新疆、チベットをはじめとする地域は、中国の固有の領土ではなかった。
これから、中国はどうなることだろうか?
中国の経済発展には、目を見張らせられる。世界人口の5分の1にしか当たらないのに、急速な経済発展のために、中国は今日、世界のセメント生産の半分、鉄鋼生産の3分の1、アルミ生産の4分の1を呑みこんでいる。この10年間だけで、石油と大豆の輸入をとると金額にして23陪も増えている。
それでも、中国がはたして経済「発展」をしているのかというと、疑問がある。発展は向上を意味している。
中国の「経済発展」はすさまじい大気汚染と、水質、土壌汚染を引き起こしている。中国は全世界から、石油、鉄鉱石、銅をはじめとする資源を貪欲に買い漁って、輸入している。そのかたわらで、地下水を汲みすぎたために、湖水や川が枯渇するようになって、全国の規模化が進んでいる。ところが、きれいな空気と水は輸入することはできない。
今日の中国は中華人民共和国と呼ばれるが、1949年に建国されてから、60年にわたって一度も自由な選挙を行ったことがない。中国共産党が力づくで支配してきた国である。いつまで、このような支配が続くことになるのだろうか ?
先輩のソ連は1922年に生まれたが、69年後に消滅した。中国は先輩のソ連よりも、長くもつものだろうか?
歴史を振り返ってみると、フランス革命もソ連を生んだロシア革命も、経済が停滞していた社会が経済成長を始めたことによって社会が流動化し、それまでの箍(たが)が緩んだために、ひき起こされた。中国の開放経済が、それに当たることになるだろうか。 (自由20年6月号より)
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「日本は世界の光」
アメリカでは、今日でも白人と黒人の間に際立った格差がある。
1世帯あたりの平均所得を較べると、黒人は白人の63%でしかない。教育水準も大きく劣る。17歳の黒人の少年の学力は、13歳の白人少年の水準にしか達していない。
黒人は営利会社の経営者の5%しか、占めていない。20歳から34歳の黒人成年男性のうち、100人に11人が刑務所で暮らしている。白人の7倍の比率だ。黒人の少年の69%が未婚の母親から、生まれている。
今日、アメリカで黒人が白人に混って活躍できるようになったのは、日本国民が先の大戦を大きな犠牲を払って戦ったためである。
そのために、数世紀にわたって白人の苛酷な支配のもとで呻吟していたアジアの諸民族が、解放された。植民地解放の高波がアフリカも洗うようになり、アフリカの諸民族がつぎつぎと独立を獲得していった。
アメリカは黒人を長い間にわたって法的に差別してきたが、黒人を抑えつけることができず、1960年代に入ると黒人の公民権の要求を受け容れることを強いられた。
もし、日本が先の大戦を戦うことがなかったら、今日でも白人がアジア・アフリカを同じように支配し、アメリカにおいて黒人に対する差別が続いていたに違いない。
第二次大戦が終わるまでは、黒人はメジャー・リーグの野球選手になれなかった。プロゴルフ界のタイガー・ウッズが活躍しているが、黒人がゴルフコースでプレイすることは考えられなかった。テニスも同じことだった。アメリカで黒人が白人と並んで活躍できるようになったことは、日本の力によるものである。日本として大いに誇るべきことである。
日本国民は明治に開国してから、2つの大きな夢をいだいてきた。1つは西洋の列強によって強いられた、屈辱的な一連の不平等条約を改正することであり、もう1つは人種平等の世界を創り出すことだった。
幕末に海外を旅した先人たちは、アジア・アフリカで住民が西洋人によって、家畜のように使役されているのを見て、憤った。明治時代から先の大戦に敗れるまで、日本語のなかで「白魔」という言葉が日常的に使われていたのに、白人が態度を改めたために死語になってしまっている。
日本はアジア・アフリカの諸民族を解放するために、先の大戦に参戦したのではなかった。しかし、戦端が開かれると、日本の多くの青年たちが人種平等の理想の世界を実現するために生命を捧げた。
ベルサイユ会議において国際連盟憲章が起草されたが、日本全権団が人種平等の原則を盛り込むことを強く主張したのにもかかわらず、アメリカ、ヨーロッパ諸国によって拒まれたことを指している。アメリカはフィリピンを植民地としていただけでなく、国内で人種差別を行っていた。
人種差別が人類の歴史を通じて、長い間にわたって行われてきたが、日本が先の大戦を戦ったために、人種差別のない理想世界が招き寄せられたのだった。 (自由20年7月号より)
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「吉兆は潰れたが」
。
先の大戦に敗れたときに、敗戦を終戦、占領軍を進駐軍と言い替えたのも、このように験を担ぐ、昔からの生活文化からでたものだった。戦時中に退却を転進、全滅を玉砕といったのも、そうだった。
平安時代以前の昔から、相手の名前を呼ぶことは、不吉なことだとされてきた。そのために、今日でも相手の名を口にすることを忌んで、社長、常務、課長とか、支店長代理と呼ぶものだ。
機内乗務員はお客様といってほしい。
遊郭として栄えた吉原は、もとは埋め立て地だった。もとは葦原と呼ばれたが、葦が「悪し」に通じるので、験を担いで吉原に改められた。売春窟に吉の字を冠したのだった。敗戦が終戦になったのと、同じ発想だった。
大阪は明治に入るまで、大坂だった。天皇様が京都をあとにされて、江戸へ御動座されると、大坂がさびれたために、下り坂を連想させたので、大阪と改名した。
私たちは二十一世紀に入ったというのに、験によって束縛されている。
いったい、日本国憲法は平和憲法なのだろうか?第九条があるかぎり、国を守れないから、日本をアメリカの属州にする憲法なのではないのか。日中友好というのは、一方的な片想いにすぎないのではないだろうか?専守防衛といっても、万一、相手から攻められたとして、相手の国土を攻撃しないで、防衛戦争をたたかえるものだろうか?
私たちが略して「国連」と呼んでいる国際連合は、敗戦を終戦と擦り替えたのと同じ偽語である。正式名称は「ジ・ユナイテッド・ネーションズ」であるから、「連合国」が正しい。ルーズベルト大統領が開戦の翌年の昭和十七(一九四二)年一月一日に、ワシントンに日本と戦っている諸国の代表を集めて、「今後、われらの同盟をジ・ユナイテッド・ネーションズと呼ぼう」と提案して、承認されたものである。
ジ・ユナイテッド・ネーションズはわが軍が沖縄に来攻したアメリカ軍に対して勇戦していた、昭和二十年(一九四五)年四月に始まったサンフランシスコ会議において、六月に創設された。五十二ヵ国によって創設されたが、ドイツは五月に降伏していたから、日本に対して戦っていることが、加盟国の資格とされた。
日本政府も、新聞も昭和二十年十一月までは、ジ・ユナイテッド・ネーションズを正しく「連合国」と訳していた。今日でも、外務省による「国連憲章」の正訳は、「われら連合国の人民は……」という言葉から始まっている。原文は「ウィ・ザ・ピープル・オブ・ジ・ユナイテッド・ネーションズ……」である。
ところが、敗戦直後に小賢しい小役人が、「連合国」では屈辱的なので、戦前の国際連盟をもじって、訳語を「国際連合」に改めた。敗戦を終戦に擦り替えたのと、同じことである。
日本が国連と誤訳したジ・ユナイテッド・ネーションズの公用語は、英語の他に、ロシア語、フランス語、中国語、スペイン語、アラビア語の五ヵ国語がある。同じ漢字国の中国ではジ・ユナイテッド・ネーションズを、「連合国」と正しく呼んでいる。
日本と同盟して戦って、敗れたドイツとイタリアも、それぞれ戦時中の連合国と同じ呼称であるdie Vereinte NationeとLa Nationi Uniteを用いている。韓国、朝鮮も正しく「連合国」と呼んでいる。
ドイツ国民も、イタリア国民も、敗戦を終戦、占領軍を進駐軍と言い替えなかった。
昭和二十年三月に東京を空襲して、一晩で十万人以上の市民を虐殺し、八月に広島、長崎に原爆を投下したのは、連合国―ジ・ユナイテッド・ネーションズ、あるいは今日、日本で定着している呼称を用いれば、国連の空軍であった。
そのジ・ユナイテッド・ネーションズを「平和の殿堂」として、崇めている日本人が少なくない。そういった人々は悪し原を「吉原」と呼び替えて、売春を称えて謳歌しているようなものだから、猥雑なことである。
もし、ジ・ユナイテッド・ネーションズを正しく「連合国」と訳していたら、誰が巨額の血税を投入して、国連大学―連合国大学を東京に誘致したことだったろうか。日本全国の各地に国連協会があって、善男善女が奉仕しているが、連合国協会だったらそうはゆくまい。
日本国民は現実から目をそむけて、言葉を景気づけに乱発することを好んできた。
先の大戦でも、「無敵海軍」、「無敵陸軍」、「神州不滅」とか、「天佑神助ヲ信ジテ全軍突撃セヨ」といった。「平和都市宣言」とか、「平和憲法」という言葉は、その延長であろう。
スペインは海軍を無敵艦隊と称したが、一五八八年にイギリス海峡で壊滅した。
毎年年末になると、その年をよくあらわした漢字が選ばれるが、二00七年はミートホープ社などによる食品偽装問題が囃し立てられたことから、「偽」だった。
偽りの言葉が横行しているのは、現実より願望を重んじる生活文化に根ざしていようが、国際社会という荒海を乗り切ってゆくためには、現実を直視しなければなるまい。
紙数がなくなったから、この稿はお開きにしよう。(自由20年8月号より)
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「いま日本は滅びつつある」
ロシア革命から七十四年にわたった実験が失敗した大きな原因の一つが、礼節を反革命的なものとして疎んだことだった。社会主義国家では人が粗野になり、偽善が横溢した。礼節は内面から発するから、外から強いる法よりも大切である。
いま日本が滅びつつある。人々が享楽を崇める生活に隷従するうちに少子・高齢化が進んで、国として衰退しつつある。
家族こそが東西を問わず社会の出発点である。今日の日本では祖先を祀ることがなく、一族の繋がりが失われた。家は一族であってきたのに、住宅を指すだけの言葉となった。
いま日本の四千七百万世帯の四分の一の千二百万世帯が、一人世帯となっている。家族国家であることを誇りにしたのに、家族の絆が束縛として忌まれるようになっている。
過去は再体験することによってのみ、生かすことができる。
ついこのあいだまで日本では神棚に手を合わせたり、朝、太陽へ向かって拍手を打ったものだった。新年を迎えて門口に依代として松飾りを立てることも、たんなる飾りになった。
私たちは人類が生まれてから、初めて現在しかないおぞましい文化をつくりだした。落ち着きある生活を営むためには、受け継いだ文化を大切にしなければならない。伝統は博物館に何が並んでいるのかということに、現れるのではない。
人々がどれだけ過去を体験するかということによって守られる。
(自由20年11月号より つづく)
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「いま日本は滅びつつある」
二00六年に教育基本法が改正されたが、多くの国民が学校教育の質が劣化したことに対して危機感を懐くようになったためだった。
教育基本法が改正されて、日本の前途にほのかだが燭光を見る思いがする。新しい基本法に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という、それまでなかった文言が入ったのをはじめ、いくつか重要な手直しが行われている。それでも、独立国にふさわしいものとはいえない。
ここまで混乱した国を建て直すのは、一朝にしてできることではない。だが、日本に残された時間は少ない。
独立国であれば外敵から国を守ることは、国民の当然のつとめであるのに、まったく触れていない。自衛隊という言葉もでてこない。日本国憲法第一章第一条に規定されているのにもかかわらず、皇室も登場しない。皇室は日本の「伝統と文化」の根幹を形成しているものではないか。
教育基本法が改正され、二00八年に入ってから学習指導要領と学習指導要領の解説書が改訂された。
新しい学習指導要領で、「ゆとり教育」を見直して、授業内容を充実させ、授業時間を増やした。これまで文科省は「ゆとり」という日本語を誤って使っていた。本来、ゆとりは忙しいなかで生まれる暇のことである
それでも、私は多くの不満をいだいている。新しい教育基本法にも、学習指導要領や解説書のどこを読んでも、農業の重要性に触れていない。歴代の日本政府が商の論理を優先させて、農業を荒廃させたためである。
私たちが森や海を見たり、風に頬をうたれると寛ぐのは、有機的な時間を感じるからだ。農村には生命に適った時間がある。今日、私たちは無機的な時間によって支配されている。
中学校から武道が必修科目となって学校に道場をつくることや、三味線や琴など邦楽が教えられることになったのも高く評価したい。武道や邦楽のリズムが、日本人の所作をつくっていた。
教育基本法の改正を受けて、文科省が教科書検定制度の見直しを進めているが、抜本的な改革が待たれる。いまだに全国の学校に、日本国憲法の戦争放棄条項が世界のパラダイムとなりつつあるとか、ことさら日本軍を悪者に仕立てて南京や沖縄で法外な残虐行為を働いたとか、事実を大きく歪める記述が行われた教科書が堂々と罷り通っている。
(自由20年11月号より つづく)
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「いま日本は滅びつつある」 外
私たちが最終的に頼りにできるのは、日本民族しかない。
江戸時代の日本は世界のなかで、もっとも徳性が高い社会を形成していた。日本は天然資源を欠いた国であるのに、日本だけが十九世紀後半に有色人種のなかで近代化に成功し、たちまちうちに世界の一流国に伍することができた。徳こそ日本の国富であった。ところが、この唯一の資源を食い潰すうちに、今日の惨状を招いた。
日本は性急に西洋化をはかって、西洋の模倣に努めるあまり、私たちのなかに住んでいる日本人と敵対するようになった。近代化と西洋化を混同してしまったために、社会にさまざまなひずみができた。私たちは江戸期の日本人と、和解しなければなるまい。江戸時代から明治にかけた日本の生活文化を、再評価するべきである。
日本人の心の深海に眠る少年が目覚め、私たちの力を甦らせるのはいつのことだろうか。
その前にさまざまな竜や魔神をやっつけなければなるまい。
伝統は案外、機能的なものである。文化には形があるが、いまの日本人は古臭いといって斥けている。日本の精神文化のもっとも大きな特徴は、ものごとを善悪や損得によらずに、心の働きから行動まで美しさによってはかってきたことである。視覚的にも瑞々しさや、清々しさが求められた。
日本の伝統建築は外容と内容が一致している。そのために二十世紀に入ってから西洋のブルーノ・タウトや、アドルフ・ルーズ、リチャード・ジョセフ・ノイトラをはじめとする建築家に衝撃を与えて、今日の世界の機能的な住居やビルが生まれた。
私たちはもう一度、母なる日本文化の胎内に入り、冷静に見きわめ、勇気をもって再び躍り出ることが必要である。そうすることが可能であるならば、私たちはそのときにまともさと活力を取り戻すことになろう。
(自由20年11月号より)
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「若者と老人の根性を正したい」
悪徳業者に騙された留学希望者たちは、払い込め詐欺の被害者よりも、程度が低い。払い込め詐欺の被害者のほとんどが老人であるが、留学のほうは若者だ。なんで自分で手続きをしないのか。
入学手続きも自分でできないような者は、留学しても、たいした者に成長しないはずだ。行かないほうがよいのではないか。
ひと昔の母親だったら、凛として「そのような息子は、ひとつ存分に懲らしめて下さいまし」とか、「どうぞ、お灸をすえてやって下さい」といったことだったろう。老いも若きも、何でも金次第で買うことができると思うから、恥知らずだ。
老人は本来であれば、社会の鑑である。若者に手本を示さなければならないのに、詐欺師の電話を受けてATMに慌てて走るのは、浅ましい。
それにしても、息子だと名乗る者の口車に乗ってしまうのは、日本で家族が崩壊したことを意味していて、おぞましい。家族がばらばらになって日常の接触がないのだ。
留学詐欺の罠に落ちる若者も、子や孫が不祥事を起こしたと詐欺師にいわれて、ATMを操る老人も、金々々ということでは、詐欺師と同じ世界に住んでいよう。
福沢の箴言の一つとして、「独立自尊」という言葉がある。
しばらく前のことになるが、私は銀座の交詢社から、講演を依頼された。
交詢社は福沢が明治十三年に欧米諸国に倣って、紳士が集まって親睦をはかるクラブとして創立した。私は演題は何にしましょうかと問われて、とっさに条件反射のように、「福沢精神と今日の日本」と答えてしまった。
その日が来た。私は福沢諭吉の研究家ではなかったので、ひどく悔いた。
そして、銀座までゆく車中で、福沢に「独立自尊」という有名な言葉があって、二つの言葉から成り立っているが、いったい独立と自尊のどちらのほうが大切なのだろうかと、思案した。
たまに役に立つ閃きを得ることがある。着く前に自らを尊べば、人も国家もおのずから独立するのだと思って、そう前置きして話した。何ごとも、出発点がよいことが大切なのだろう。講話は案外に好評だった。
福沢は武士の子として、幼少から旺盛な自立心を持って育った。生涯を通じて、強烈な個人意識を培った。
自らを尊ぶためには、自らの手で尊ぶに価いする自分を創らなければならない。そのような努力をすることによって、はじめて自立することができる。
今日の日本は、近隣諸国の軽蔑をかっている。そのために、国民がすっかり畏縮している。まず、自らの伝統文化と歴史を尊ばねばなるまい。
戦後の日本は、アメリカに国防を代行させて、国の大事である国家の独立を依存してきた。情けない。日本が自立するためには、自らを尊ばねばならない。(自由 12月号より)
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「世界第二位の経済力は江戸時代に蓄えられた」
日本は十九世紀の後半にアジア・アフリカの諸民族のなかで、明治維新を行うことによって、ただ一国だけ見事に近代化を成し遂げた。白人が覇権を握っていた世界で、たちまちのうちに一流国の仲間入りを果たした。
それはいうまでもなく、先人たちが蓄えてきた力によったものだった。
その力は江戸時代に、蓄えられていたはずである。その力こそ日本にとって、資源に代わる国の富となってきた。
日本は先の大戦で、徹底的に叩きのめされた。それにもかかわらず、廃墟のなかからたちまちのうちに立ちあがって、世界第二位の経済大国の地位を獲得した。明治以後の日本の発展をもたらした同じ力が、働いたのである。
とすれば、この力を失った時に日本は勢いを失い、立ち直ろうとしても三度目の興隆を呼び寄せる手だてを失うこととなろう。
明治以後、日本の富であってきた力とは、何だったのだろうか。
勤勉さだろうか。
中国人は勤勉さでは、誰にも負けまい。
中国は紀元前十五世紀ごろから、メソポタミア、エジプト、インダス諸文明と並ぶ、世界文明の源流を築いた。火薬、暦、羅針盤、時計をはじめとして生みだしてきたし、学術から、文芸、工芸まで、才覚に溢れていることを示してきた。それでも、ごく最近まで貧しさから抜けだせなかった。
それだったら、教育だろうか。
中国と朝鮮では立身出世を志す者が、科挙をめぐって競い合った。官に人材を登用する国家試験だが、清朝末期まで千三百年以上にわたって、全国を受験地獄に陥れた。科挙は予備試験から中央の試験まで、十数の関門が設けられていた。
そうした制度を持たなかった日本が、どうして十九世紀後半に大きく飛躍することができたのか。なぜ、いち早く西洋の学問を取り込み、先進技術を我が物とすることができたのだろうか。
その答は、江戸時代の社会のありかたにある。江戸時代の日本は中国や朝鮮だけではなく、同じ時代の諸外国とまったく異なっていた。
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(徳の国富論 1章 徳こそ日本の力より) 2012/5/1
http://www.qualitysaitama.com/?p=19418
「江戸は町人が主役の時代だった」
日本では江戸時代を通じて、270年にわたって平和が保たれた。泰平が3世紀ちかく続いた国は、世界のどこにも例がなかった。
町人は経済力で武家を圧勝した。
被支配階級が支配階級よりも、豊かで自由な生活を享受していた。
社会が安定し、武の時代から文の時代へ移行
庶民のほうが、物心とともに豊かな生活を営むようになった。
経済が発展して町民が力を増すにしたがい、庶民が主体となった社会が生まれた。町民は経済の担い手となり、独自の意識を持って胸を張って生きた。
江戸時代は武家の時代だったとひろく思われているが、大きな誤解である。じつは町人の時代であり、町人の天下だった。
幕府も大名も米穀による石高ではなく、貨幣に依存するようになっていった。だが、富が町人の手に集まった
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(徳の国富論 1章 徳こそ日本の力より)
「庶民の力が世界的な芸術を生みだした」
庶民が経済や学問の分野において、幅広い自由を享受していた
庶民の逞しいエネルギーを引き出した。
町民を中心とした庶民は精力的に新しい生活文化を創りだした。
金の力が町人という新興勢力に、人としての新しい意識と自信をもたらした。
町民は腕一つでのしあがることができた。武家といっても江戸時代を通じて、人口の7%強を占めていたにすぎな
いが、多くの町民が下級武士よりも高い収入をえていた。
江戸時代の日本は世界のどの国よりも、庶民が豊かな生活を享受できる社会を形成していた。
「歌舞伎」や「浄瑠璃」は町民の芸能として発達し、「浮世絵」などの庶民芸術も爛熟した。
これほど庶民が恵まれた生活を営み、庶民文化が栄えた国は、世界のどこにも存在しなかった。
庶民の力が、高い生活水準によって、日常が支えられていたせいである。
他の国では、舞台芸術や絵画、音楽は、支配階級である王侯貴族のものだった。しかし日本では、庶民が歌舞伎や、絵画芸術をはじめとする工芸を支えた。
庶民は、春信、歌麿、写楽、北斎、広重をはじめとする浮世絵芸術を生んだ。
浮世絵は19世紀後半にジャポニスムとして、ヨーロッパ美術界に衝撃的な影響を及ぼした。
“日本のシェイクスピア”近松門左衛門(1653~1724)は井原西鶴(1642~1693)や、松尾芭蕉(1644~1694)と同時代人だった。
シェイクスピア劇に登場する人物が、すべて王侯や貴族であるのに、近松の人物たちは、中小の商人か、その手代か、浪人であることが、
対照的である。ヨーロッパが王侯貴族を中心とした文化だったのに対して、日本では庶民が文化の担い手となっていた証しである。
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「江戸は世界最大の壮麗な都市だった」
江戸では、同業者が集まって「町」をつくっていた。大工町、染め物の紺屋町、石町、畳町、鍋町、桶町、材木町、野菜果物の青物町、大工町、鍛冶町、炭町、鞘町、乗物町、旅籠町、大鋸町、鉄砲町、馬の売買の馬喰町、材木町、白壁町、江戸歌舞伎座の中心の芝居町、人形芝居の人形師が、普通の人形もつくって売った人形町といったように、業種が町名となっていた。銀座は徳川家の主城があった駿府の銀貨鋳造所を、江戸に移したことに由来する。
江戸は130万人?の人口を擁していた。
ロンドンの人口といえば1750年に67万人であり、パリは1800年にやっと50万人に達した。
江戸は全国から集まってくる武士や、庶民によって、観光都市としても繁栄した。広重の『江戸百景』は、江戸にあった多くの観光スポットを描いている。
江戸後期の文人の太田南畝(1749~1823)が江戸の賑わいを描いているが、「五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店」と、記されている。一楼は小さな料理屋であり、一閣は堂々とした大きな料亭を指している。まるで今日の東京か、ニューヨークかパリ、ロンドンの見聞記のようである。
店内は、町民でいつも溢れていた。
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「観光・飛脚・出版が盛んだった」
徳川時代の日本は、レジャーをとっても、世界の最先端をいっていた。庶民が全国にわたってどこへ行こうと自由だったから、団体旅行が盛んに行われた。
2,30人の庶民が、団体を組んで旅をした。伊勢旅行だけではなく、四国の金毘羅参りや、四国遍路、秩父巡礼、善光寺参りなど、多くの団体旅行が行われた。
東海道の道筋の主な宿場町だけで、1000件以上の旅籠があった。1800年代初頭の文化年間に、いくつかの旅籠組合である「講」が結成され、旅籠がそれぞれ所属している講の看板を掲げた。
また、江戸時代には出版が盛んで、学問書にかぎらず、さまざまな書籍が刊行された。『東海道中膝栗毛』
弥次喜多の2人は、東海道中が完成すると、大阪から四国へ渡って金毘羅参詣を行い、本州に戻って宮島を観光したうえで、木曽街道を通って善光寺を詣で、草津をまわって江戸まで帰った。
当時の庶民が観光旅行や湯治に興味をもち、出かけていた
郵便も九州から北海道まで、どこにでも届いた。これほど郵便制度が整った国は、当時の世界になかった。
江戸では日本橋のわきに町飛脚の標識をたてて、藁のむしろを置き、郵便を出したい者は書状に賃銀を結びつけて、叺に入れた。番人が誰もいなかったが、盗まれることはなかった。
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「75万人に、わずか12人の同心と300人余の岡引きと下引き」
治安が驚くほどよかった。
よく江戸は百万都市だったといわれるが、人口は百万人を超えていた。
江戸の人口は天明6(1786)年の調査によると武家と町人を合わせて136万7870余人だった。このなかで町民が65%以上を、占めていた。
通称を「南番所」「北番所」と呼ばれた奉行所には、合わせて322人の町方役人といわれた役人が働いていた。この数は江戸時代を通じて、変わらなかった。
2人の奉行(市長)のもとに、今日だったら管理職に相当する「与力」が合わせて50人いた。その下で、「同心」以下、370人が働いていた。
そのうえ、両奉行所の役人は月番制で、隔月交替して働いた。2つの奉行所にはいつも、半数の166人しか詰めていなかった。
つまり、江戸の町民人口を75万人として、166人の役人で足りたのだから、常時、町人4600人に1人の役人で済んでいたことになる。
332人の役人のうち、64人が司法と警察業務を担当していた。警察官に当たる奉行所付同心「定廻り」は、江戸時代を通じて両奉行所を合わせて、12人しかいなかった。
定廻りは「町方同心」とも、「町同心」とも呼ばれたが、「八丁堀の旦那」として知られた。それぞれが自分の収入のなかから、5人あまりの「目明し」という「岡引き」を抱えて、私的に使用した。目明しは「御用聞」とも呼ばれたが、同心の手先として、裏世界を内偵する耳や目の役割を果たした。
同心も隔月で勤務したから、岡引きと下引きを加えても、150人に充たない警官によって、70万人以上の治安を維持していたのである。
これは、町民が高い自治能力をもち、公徳心がきわめて強かったことを物語っている。
もちろん、単純に比較することはできないが、東京都の人口が1276万人(平成19年)であるのに対して、警視庁には46000人が勤めている。都民277人ごとに、警察官1人という計算だ。
ところが、江戸では町民約4000人ごとに、1人で足りていた。江戸時代の日本人は、道徳性が高かったのである。
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「儀礼が律する清潔な循環型社会」
儀礼が、江戸町民の生活を律していた。礼節を重んじていたことが、社会に秩序を与えていた。
商いですら、神聖な行為に昇華した。このようなことは、世界のなかで日本にだけ見られた現象である。
「暖簾」はその象徴だった。暖簾は店の信用を表すものだった。
神社の鳥居と同じように「結界」を示すものであり、その内側が商いを修行する神聖な場となっていた。
火事を起こした時には、まず暖簾を持ち出した。
江戸時代には、実意が人々の生活を律していた。人々の暮らしは、いつも「お天道様」が見守っていたし、「ご先祖様」が守ってくださるものだったから、誤魔化すことはできない。
江戸は、生活環境から見ても、清潔な都市だった。ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは江戸の「道路が清潔なことは、何人もこれを踏まざるならんと思われるほどである」と、描いている。
なんと、江戸期の日本は、すでにエコロジーの分野において無駄がない、循環型社会を実現していたのだった。現代の日本人にとって、江戸の社会は多くの発想のヒントを与えてくれるにちがいない。
江戸時代の日本は、庶民まで、知的な向上心が旺盛だった。
世界のなかで、庶民が数多くの学者を生んだ国は、日本だけである。
あらゆる階層の日本人が教育を重んじて、研究熱心だった。身分差別があっても、学問については、平等性が高かった。
町人の出の学者をあげてゆけば、きりがない。伊藤仁斎(1627~1705)、青木昆陽(1698~1769)、本居宣長(1730~1801)、本多利明(1744~1821)、山片蟠桃(1748~1821)がいるが、そのごく一部でしかない。
浅見絅斎(1652~1711)、室鳩巣(1658~1734)、その師の山崎闇斎(1619~82)、海保青陵(1755~1817)も、庶民の出である。
農民からは、石田梅岩(1685~1744)、二宮尊徳(1787~1856)をはじめとして、数多くの優れた学者が輩出している。
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「大江戸千六百六十八町」
江戸府内は、武家地、町地、寺社地に分かれていた。武士の住む「武家地」が江戸城を囲むようにあって、次に「町地」があり、さらに「寺社地」があった。
武家地が総面積のおよそ6割を、町地と寺社地がそれぞれおよそ2割ずつを占めていた。
江戸には808町があったといわれるが、寛永2(1749)年に1483町、寛政4(1792)年には1668町に増えている。
今日の東京都と比べれば、江戸府内の総面積は、世田谷区か、足立区に等しい。町地は、ほぼ中央区の大きさに当たる。
大名の屋敷は広壮で10万石の大名となると、7000坪の敷地を占めていた。
大多数の武士が、「長屋」に住んでいた。1棟の長屋ごとに、数戸の同型の住居があった。庶民も長屋に住んでいたが、「裏長屋」と呼ばれた。
狭い道を挟んで生きる住民は、同じ町内の者として、「遠くの親戚より近くの他人」という諺のように、人情によって結ばれていた。
濃密な地域社会がおのずと形成され、たがいの暮らしぶりや懐具合も見当がついたから、「相身互い」という思いやりの気持ちも生まれ、困った時には助け合って、貧しくとも安定した暮らしができた。
漱石の言葉は江戸庶民の精神を、よく表している。今日の作家ならば、このようなことは書くまい。町内は心の絆によって、結ばれていた。
江戸時代の日本人は、人が宇宙のなかで生かされている存在であるように、人々のなかで生かされていることを、肌で知っていた。
今日の日本では、とくに都会にあっては、江戸時代の人々が頻繁に口にした「情け」とか「人情」「義理」といった言葉が、死後となっている。
江戸の人々は和を尊び、睦み合った。今日の都会では、マンションの住人が交わることがない。
家族は身を寄せ合って生きていくものだったのに、いまでは団欒することがなくなった。このごろでは、家族が触れ合うことを避けるかのように、独立した子供部屋をつくるのが当たり前になっている。子供が部屋から出てこないのなら、まるで座敷牢をつくったようなものだ。
江戸の人々にとっては、気配りや、気遣いが大切だった。「こころ」とは情けのことだったから、思慮分別、自分の気持ちと異なったものを受けいれる許容性や、人としての証しまで意味した。人情こそは庶民の倫理だった。
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日本語では「こころ」がもっとも多く使われていた
明治が終わるころまでは、日本語のなかで「こころ」がもっとも多く用いられた言葉だった。
「心尽くし」「心立て」「心配り」「心入る」「心有り」「心砕き」「心利き」「心嬉しい」「心意気」「心合わせ」「心がけ」「心延え」「心馳せ」「心根」「心残り」「心様」というように、心がつくおびただしい数の熟語がある。世界の諸語のなかで、日本語ほど心と組み合わされた語彙が多い言葉はない。これは、日本語の際立った特徴となっている。
日本民族はこころの民だった。人々は心を分かち合って生きてきた。
幕末の日本を訪れた西洋人は、日本人の親切さに感嘆した。「振舞水」という言葉があるが、暑い時に商店や、家の前の道わきに桶や、樽を置いて水を入れ、柄杓と茶碗を添えて、往来する人が自由に飲めるようにしてあった。水ぶるまいとも、接待水ともいったが、他者に対し、いかに心を繊細に働かせていたかがわかる。
他人に心を配るだけではなかった。
江戸中期の俳人である上島鬼貫(1661~1738)に、「行水の捨てどころなし虫の声」という句がある。やはり中期の女流俳人だった千代女(1703~75)の「朝顔につるべ取られてもらい水」という句にも、同じ感性がこもっている。日本人は自然とも和し、虫や草にまで心を通わせる、やさしい心を持っていた。
イギリスの初代駐日公使だったサー・ジョン・オールコック(1809~97)は、幕末の安政6(1856)年に着任した。オールコックは江戸の美しさに、息を呑んだ。
「この首都には、ヨーロッパのいかなる首都も自慢できないような、すぐれた点がある。それは、ここが乗馬をするのに、ひじょうに魅力的な土地であることだ。都心から出発するとしても、どの方向に向かってすすんでも、木のおいしげった丘があり、常緑の植物や、大きな木で縁どられた谷間や、木陰の小道がある。
しかも、市内でさえも、とくに官庁街の城壁沿いの道路や、田舎の方向に走っている道路や並木道には、ひろびろとした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木のよくしげった公園とかがあって、目を楽しませる。このように、市内でも楽しむことができる都市は他にない」(『大君の都』)と、述べている。
江戸には樹木や、緑がいたるところに繁っていた。樹木は建造物よりも眼を和ませ、心を悦ばせてくれる。葉が雨をはじく音も、快かった。
そういう環境の中で、江戸時代には、誰もがまっとうに生きようとした。「義理」とか「仁義」といった言葉は儒教から発して、はじめは武家が用いたものだったが、庶民は自分達の生活体験を通じて、生活を律する道理とした。
言葉は人をつくる、もっとも強い力を持った鋳型である。言葉は選ばれて使われた。そこにはまず自制が働く。無意識のうちに、相手への配慮も、自己の評価も行われているのである。
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「生まれながらの自制心」 外交
日本は自制する文化である。
安土桃山時代や、江戸時代に日本を訪れた西洋人は、鮮やかな極彩色を好む中国人や朝鮮人と違い、日本では抑えた中間色や、地味な色合いが用いられていることに気づいた。高官も、富裕な者も、地位や富を顕示するような身なりをしなかった。みせびらかすのは、野暮とされていた。
日本人は世界のなかで、もっとも寡黙な民族である。今日でもはっきりした自己主張を避け、曖昧な言いまわしをする。論理性がないわけではなく、和を重んじるからである。
エドワード・モース(1838~1925)はアメリカの動物学者で、明治10年(1877)に来日し、東京帝国大学で教えた。大森貝塚の発見と調査によって、知られている。
モースは著者『その日その日の日本』のなかで、つぎのように述べている。
「驚くことには、また残念ながら自分の国(註・米国のこと)では人道の名に於て、道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているようである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり(略)これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」
日常生活が暗黙の合意によって、律しられていた。誰もが実直で、礼節を守り、義理堅く、律義だった。
ついこの間までは、このような律義さを、「明治気質」といった。明治は多分に、江戸時代の延長だった。
江戸期の男も女も、意志が強かった。自分の中にしっかりした規範をもっていたから、判断がぶれることがなかった。そこに毅然とした強さが生まれた。
いつの時代でも強く、優れた者が人々を牽引することによって、社会が発展してきたことを忘れてはなるまい。
江戸の人々は共通の価値観のもとで生活していたから「世間体」が何よりも大事だった。世間体は、世間態とも書き、世間の人々に対する対面を意味し、見栄でもあった。
世間の人々との人間関係が、天と同じように重要だった。ユダヤ・キリスト・イスラム教のように絶対神を想定することで、同じ価値観のもとに人々を結束させる文化もある。しかし、日本の場合は、社会そのものが人を見守る天であり、人々を束ねる役割を果たしていた。
人々はそのために、人間関係の絆を何よりも大切にした。人間関係が社会道徳を支えていた。もし、社会規範に背くことがあったら「世間体が悪い」といって、一族ぐるみで恥じた。
全員、名誉心が強かった。
ところが、いまの日本では共同体意識が薄れたために、昭和に入っても使われていた、世間や世間体という言葉がなくなってしまった。美徳としての見栄も名誉心も、とうに失われたままでいる。人間関係はただの駆け引きと同視され、自制心は弱さの現われとして蔑まれるようになった。
私はビートルズのジョン・レノンと、親しかった。ジョンは私の従姉と結婚して、ニューヨークの日本語学校に通っていたが、日本語の「お陰様で」という表現が、世界の言葉のなかでもっとも美しいということを口癖にしていた。生かされていることを、天に、人に社会に感謝する謙虚な精神を、するどく感じ取っていたのだ。
庶民は当然のように助け合った。さまざまな「講」が、その具体的な現れだった。講とは講金を集めて融通し合う制度で「無尽」とか「金頼(たの)母子(もし)講」とも呼ばれた。庶民の知恵が生んだ、相互扶助の金融の仕組みであり「たのもしい」が語源といわれる。
いまでも旅に出かけると、親しい人々に土産を贈る習慣がある。観光地に土産物店が多いのが、日本に独特な光景となっているが、講中仲間に、代参した印の手土産を配った名残である。
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「三公七民で収穫量が四倍に」
徳川時代といえば、農民が過酷な年貢に喘いでいたというイメージがある。しかし、それは間違いである。
このような状況は、しかし、長くは続かなかった。戦国の世が過去のものとなり、泰平のうちに江戸の町が整備されていくにつれて、四代将軍家綱の治世(1651~1680)半ばから、年貢率が下がりはじめた。六代将軍家宣(1680~1704)から、つぎの家継の治世(1704~1716)にかけては、二割八分九厘まで落ちた。
課税率がかくも大きく下がったのは、世界でも珍しいことだが、なんと「三公七民」に逆転したのだ。
そのかたわら新田開発が進み、米の耕作面積が、江戸時代を通して二倍になり、収穫量が四倍に増えた。
日本の人口は江戸時代を通じて3千万人あまりで、大きな増減がなかった。食糧の供給が潤沢になった。日本人が一日二食から三食を摂るようになったのは、江戸時代に入ってからだった。
経済が発展するなかで、農村も繁昌する都会の恩恵をこうむり、商品・貨幣経済に取り込まれていった。農民も欲心ではひけをとらなかったから、農工商の区別がつけにくくなった。
農商兼業の農家が、珍しくなくなった。全国にわたって農民のなかから、酒、醤油の醸造、織物、藍(染料)、蝋、綿、和紙、俵物(俵詰めの食品などの商品)、金融、廻船などをはじめとして、事業を営む成功者が現われた。その証しとして、今日、地方に農民の広い屋敷や、農民の寄進によって建てられた、大きな寺が多く残っている。
江戸時代の全国的な飢饉といえば、寛永19(1642)年、元禄8(1695)年、享保17(1732)年、天明2(1782)年、天宝4(1833)年に起こった。なかでも、天明と天宝の大飢餓は、規模が大きかった。
農村では百姓一揆、都会では米屋の蔵の打ち壊しなどの騒動がつづいた。しかし、一過性のものだったから、その都度、泰平の世に戻った。
江戸時代の時間は、日照時間にしたがった。夜明けを“明六つ”として、日没の直後を“暮六つ”と定めた、日照時間を尺度とした不定時法が行われていた。
“明六つ”と“暮六つ”がそれぞれ6等分されて、“一刻”とされた。季節の変化と昼夜の長さに合わせて、“一刻”の長さが変わった。間食をさす「おやつ」は、昼食と夜食の間の午後3時前後の8つの刻からきている。
日本が技術立国として現在の成功をかちえた源は、江戸時代にまで遡ることができると、私は考えている。中国や朝鮮では、職人を卑しい者として軽蔑したから、名もない職人までが発奮し、腕をみがくという風潮は生まれなかった。
しかし日本では、「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋をつくる人」という言葉があるように、それぞれの仕事の価値を認め合い、職人であれ農民であれ、衆に抜きんでた成果をあげる者を賞賛し、重く用いた。
江戸時代の日本人のほうが、時間の観念は発達していた。時間を無駄にしないよう、時間を細かく管理していた。
時間は過ぎ去ってゆく貴重なものだった。時間が量的に計られ、資産と見なされ、生産性を左右することも理解されていた。現代の制作現場の合理的な工程管理に、江戸期の時間観念が引き継がれている。時間を守る国は、かならず発展する。
幕末に日本を訪れた多くの西洋人が、貧しい庶民までが礼儀正しく、公徳心がきわめて高かったと、口を揃えて賞賛している。
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「遊び好きと“江戸四天王”」
江戸は、世界のなかでも、享楽的な都市だった。
江戸の庶民は気散じに長けていたから、さまざまな遊びを創り出した。浮世はうきうきと生きるべき世の中でもあった。かといって、まっとうな精神が蝕まれることはなかった。
娯楽の主導権は、町人がとった。勤勉さと、遊び好きが一体になっていた。よく働き、よく遊んだ。
江戸期の日本人はゆとりをもっていたから、余暇社会だった。庶民は、芝居、見世物、辻相撲、落しばなし(落語)、仏寺の開帳、楊弓場から、活花、茶会、句会、香道、書道、囲碁、将棋、園芸まで楽しんだ。辻相撲は町の辻などに小屋掛けして、相撲興業や、素人が集まって行うことをいった。男たちにとっては、歓楽街である吉原や、湯女が働く湯屋や、岡場所があった。
遊楽も、庶民の活力を示したものだった。人々は季節によって、梅、桜、桃の花見や、花火、祭礼、縁日、盆踊り、汐干、磯遊び、菊人形の鑑賞、筵や、毛氈を持参して虫聞き、月見や、雪景色を賞する雪見に繰り出した。
食べ物も、遊びの対象となった。江戸期を通じて、多くの江戸食べ歩きの案内書が、刊行されている。寿司、てんぷら、蕎麦、鰻が、“江戸四天王”といわれた。
だが、農閑期の休みは地方によって異なったが、年に40日から80日もあって、骨休めした。農民も遊楽を楽しみ、溝をつくって神社仏閣に参詣旅行したり、都会見物に出かけたりした。
江戸時代を通じて、家族は結束して生きた。家族とその血縁である一族が、基本的な共同体だった。郷土愛や、祖国愛は、この家族愛を拡大したものだから、本来なら、時代を超えても変わってはならないはずである。
子供たちにとっては、家庭と社会がもっとも大きな力をもった学びの場である。知識を伝える役割は、寺小屋や学校が果たすとしても、子は大人の後ろ姿を見ながら育つものだから、親や町内の人々がしっかりしていれば、引きこもりなど起きはしない。
江戸期の家では、父親が家長として柱となっていた。父親が子の教育に当たって、もっとも重い責任を担い、妻が力を添えた。
父親が息子を躾た。躾という文字は、一挙一動を美しくという、もとの中国にない和製の漢字である。
石田梅岩は石田心学を興したが、子供の教育についても書いている。「万事を子供の思いのままにしてしまうと、やがて子供は親の手に余るようになる」と、戒めている。
人が生きる目的は、男ならよき父、よき祖父になることであり、女であればよき母、よき祖母となることだった。生きるためには、労を惜しまず働き、自分が先祖から引き継いだ生命を、次の世代へ伝えた。
ついこの間まで、祖父、祖母、おじ、おば、イトコやハトコが身近にいた。伝統が受け継がれていた時代には、老人は子供たちにとって、永遠不滅に思える威厳を備えていた。
人は今日のように砂粒のような個人として、ばらばらに生まれてこなかった。「個人」という言葉も、江戸時代には存在しなかった。西洋諸語を訳するためにつくった、明治訳語の一つである。
人は幼いころから、自分を家族の一員として位置づけた。生命の連続性の中で考えたから、長じて家族や、一族を辱めてはならないことを自戒とした。
その現実が忘れられてしまい、日本においては、この「一族」が、いつの間にか離散してしまった。いまでは家といえば、住宅しか意味しない。最も素朴で、ありふれた相互扶助の基本だったかつての「家」が、個人を束縛する枷(かせ)とされ破壊されてしまった。
それとともに、家名、家風、家系、家伝、家訓といった言葉が、死後になった。だが、自分一代のことしか考えない気ままな個人は、社会を支えることができない。社会は家族の集合体である。それが集まって一族となり、地域となり地方となり国となる。最も基本的な単位としての家族のつながりが失われれば、国家としても、民族としても、解体してゆかざるをえない。
人は一生を通して一人で生きることなど、できはしない。幼い日は親の世話を受け、親が老いた時は自分が世話をする。その相互保障のくりかえしが、安定した社会をつくるのである。
いま、私たちは「個人」の「自由」に最高の価値があると思いこんでが、多少不自由であっても、助けあって暮らす方が安定をもたらし、幸せになれる道である。