1806年の露寇(ろこう)事件は、第2の元寇

ロシアの交易ルート
サハリン、エトロフ、宗谷、斜里の基地
1800年前後、ロシアは、遠くアラスカ、アメリカ沿岸まで交易の拠点を広げていました。
次第に、海産物や毛皮の市場を日本にまで拡大することをねらいはじめました。

1793年、ラクスマンが日本人漂流民を届けに来がてら、通商を求めに、北海道にやってきます。
幕府は、長崎でなら通商が可能であろうと言い逃れの返事をし、長崎への通行証を手渡します。
ラクスマンは、「交易可」との多大の期待をもちながら、本国に指示を仰ぐために帰国します。

遅れて、1804年、 レザノフ(※1)が長崎に来航し、ロシア皇帝の親書をたずさえ、日本との交易を求めます。

幕府は、レザノフを長崎に半年間留め置きます。
半年後に、通行証を取り上げ、通商を拒絶し、追い返しました。

レザノフは、激怒し、本国で日本を開国に導くには、武力あるのみと進言します。

1806年 露寇事件が起こります。
レザノフの命によるものです。

「寇」 とは、外からの賊、外敵のことです。
元寇は、「モンゴル来襲」 のことです。

日本にとっては、第2の元寇、です。
徳川幕府にとっては、はじめての対外危機です。

ロシアは、日本領サハリンと日本領エトロフの幕府の施設を攻撃し、居留地、船を焼き払いました。

幕府は、津軽、南部、秋田、庄内の4藩から3000人をエゾチ(蝦夷地、北海道)に派遣します。
しかし、ロシアの襲撃はエゾチのあちこちに続きます。

斜里を守っていた津軽藩士100人のうち70人以上が寒さと飢えでなくなるという事件も起こります。(※2)

しかし、このあと、幸運なことに、ロシアの事情が変化しました。
エゾチ襲撃の首謀者たちが、独断で行動を起こしたとして、ロシア皇帝から身柄を拘束されてしまいます。
ロシア船はこのあとエゾチに現れることは、ありませんでした。

以降、徳川後期の繁栄はこのまま続き、歌舞伎、寄席、浮世絵、滑稽本などの町人文化が花開きました。

露寇事件の折、ロシアの政策に変化がなかったとしたら、日本はエゾチをおとしいれられ、欧米の艦隊もこれに習ったでしょう。
また、このあと50年間の泰平もなかったでしょう。



斜里【地図】

しれとこ斜里ねぷた 【1:01】

(※1)レザノフ:
レザノフ By WP
ロシア貴族。14歳の頃には5か国語をマスターしていたといわれます。
のちに露日辞書を著します。
露米会社の総代理人となり、北太平洋沿岸からアラスカにかけての地域の発展のためにと日本との通商を求めます。
幕府の通商拒絶への報復として、露寇事件を起こします。

(※2)「しれとこ斜里ねぷた」は、なくなった津軽藩士を慰霊するまつりです。

【年表】

1793  ラクスマン、北海道で日本との通商を要求。
1804  レザノフ、長崎へ来航。半年留め置き後、追放さる。
1806  露寇事件。

【追記】
・1806年の露寇事件から100年たって、日露戦争(1904-1905)が起こります。

【cf.】

山本博文、北の黒船 日露交渉、NHK
磯田道史、「鎖国」が守った繁栄、NHK

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【日本の危機】