2012/08/02

マルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」は平泉

中尊寺
中尊寺
中尊寺 の月見坂。2006年5月
マルコ・ポーロ(1254-1324)が伝え聞いた黄金の国ジパングは、平泉の中尊寺金色堂(こんじきどう)がモデルとされます。

当時の奥州は莫大な金を産出し、奥州藤原氏( 1087-1189)の栄華の源泉となっていました。

奥州藤原氏は宋から『一切経』7000余巻を購入するのに、砂金4トンもだしました。
マルコ・ポーロはこのことも耳にしたのでしょう。

『東方見聞録』で日本人、中尊寺の金色堂についてのべています。

「住民は色白で、礼節正しい優雅な仏教徒である。
宮殿は屋根も床も黄金でできている。
国人はだれでも莫大な黄金を所有している。」

コロンブスが航海に乗り出しアメリカを発見したのは、マルコポーロの『東方見聞録』に触発されたからでした。

平泉の商人は、博多の中国商人と直接交易をして、平泉の栄華を支えました。

「奥州藤原氏は、仏教立国を目指し、寺院を建立して人心を戦争から平和に導こうとしました。
日本史上初めて、日本独自の都市づくりを進めました。
日本の城下町モデルの最初でした。」(摘録、入間田宣夫、NK2012/2/4)

鎌倉幕府も江戸幕府も、平泉をモデルにしてまちづくりをしました。

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奥州藤原氏は頼朝に攻められて1189年に滅びます。
松尾芭蕉は、ちょうど500年後の1689年「奥の細道」の旅に出、平泉では金色堂を詠みました。


    五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂(ひかりどう)

(しとしと降る五月雨も、光堂には、その気高さに気おされてか、訪うことをはばかっているようです。)

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東北の先進性は、江戸時代においても、三陸海岸地域にみられます。

三陸海岸は、物産を長崎に出し、長崎を通じ世界と通じていました。
情報や人的交流も活発でした。
民度は高く、開放的で創造性も豊かでした。
1揆もたびたび起こしたのは、人々の問題意識が高かったからでした。(入間田宣夫)


【東北関連歴史用語の見直し】

奥州合戦 ←  奥州征伐
前九年合戦← 前九年の役
後三年合戦←  後三年の役



ジャパン、ニッポンは福建語から

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南洞(なんとう)貫主
平泉・毛越寺(もうつうじ)の南洞(なんとう)貫主の自宅にて。2006年5月
南洞貫首19歳
兵隊時代
南洞(なんとう)貫主は、19歳で教員になり、半年後海軍に召集されました。
そのころの教え子が80歳を超えています。
南洞頼教(なんとう よりのり)ですが、生徒たちは「頼教」から「らっきょう」とよんでいました。
南洞(なんとう)という姓は岩手県にはなく、はるか昔にご先祖の公家がミヤコからいらっしゃったのでしょう。

毛越寺



【履歴:2012年8月】