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東大教授

「ムスリムおもてなしガイドブック」観光庁

 観光庁は2015/08月、飲食店、宿泊施設、旅行会社などに向けて「ムスリムおもてなしガイドブック」を公開しました。
付録編には、問い合わせ対応集も。

「ムスリムおもてなしガイドブック」について  観光庁

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ムスリムおもてなしガイドブック概要 【PDF】

ムスリムおもてなしガイドブック基礎知識編 【PDF】

ムスリムおもてなしガイドブック実践編 【PDF】

ムスリムおもてなしガイドブック付録編 【PDF】




家康から信頼された出色の武将は榊原康政だった。熊谷充晃

Business Journal 2015/08   熊谷充晃「歴史の大誤解」

家康から信頼され、秀吉を激怒させた出色の武将はあの人物だった!

 7月28日付本連載記事『銀座と新橋はかつて海だった!東西を結ぶ大動脈は、東海道ではなく中山道だった?』で、江戸時代の甲斐国(現在の山梨県)が、幕府にとって重要拠点のひとつであり、江戸前期には主要陸路として中山道が選ばれていたことを紹介した。

 中山道が東西を結ぶ重要なルートだったことは、特に江戸前期の北関東を見ると理解が早い。

 徳川家康が関東に移封(国替え)されて最初に着手したのは、関東各地に信頼する武将たちを配することだった。
彼らは、任された土地を治める領主であり、江戸に本拠を置く徳川家の「藩屏」(防護のための垣根)としての武力(特に防衛能力)も期待された。

中山道。京からは、江戸の手前に群馬県が。
/ http://blog.goo.ne.jp/jimkan/e/fa8b91815d8888c6f5eadd6e7064c280
館林はツルの頭
上野国(現在の群馬県)南部に位置する館林を最初に任されたのは、「徳川四天王」の1人として名高い榊原康政だった。
 康政は家康の側近としても働いており、武人として突出した評価はないものの、家康から厚い信頼を寄せられた。
文武両道で「主君一筋」「徳川家第一」という、家康にとっては最も頼れる忠臣である。

 織田信長と家康が連合して、朝倉義景・浅井長政軍と激突した姉川の戦いで、康政は勝利を引き寄せる活躍を見せ、小牧・長久手の戦いでは、敵の大将である豊臣秀吉を罵倒しつつ、自陣営の大義名分を訴えた檄文を発して、秀吉を激怒させた。

 それは、秀吉が「康政を捕らえたら、褒美は望み通り!」という破格の条件を用意したといわれるほどで、和平後に秀吉は康政の忠義心と文才を褒めたたえている。

 そんな康政を館林に配したのは、家康が当地を「北方・西方への備え」と認識したからだ。
館林は江戸から北上した場所にあり、当時は東京湾に注いでいた利根川を使えば、往来も便利だった。

 館林は、関東の支配者だった古河公方の本拠地にも近い。
加えて、陸路でも水路でも西に進めば、同じく要衝とされていた厩橋(現在の前橋)があり、さらに西に進めば中山道に出る。

 館林から上野国を北西に進むと、山間を越えて越後国(現在の新潟県)や会津地方(現在の福島県)に到達する。

北東に進めば、下野国(現在の栃木県)の日光を越えて、陸奥(現在の東北地方)との国境だった白河に着く。

 つまり、館林は北関東きっての交通結節点だったわけだ。裏を返せば、江戸を守る最終防衛ラインということである。


譜代の家柄が領主を務めてきた館林

 そんな館林を、周囲から一目置かれ、家康が信頼する康政が治めるとなれば、おいそれと手出しはできない。
また、康政は内政にも非凡な才能を見せており、家康が選んだのもうなずける。

 館林は、家康をはじめとした歴代の徳川将軍が重要視していた要衝である。
それは、歴代の領主を見ると、納得することができる。

 榊原家の後に館林を領したのは、子孫から老中を輩出する大給(おぎゅう)松平家だ。
次いで、5代将軍に就任する前の徳川綱吉が藩主となり、以降も越智松平家や太田家に井上家、秋元家といった、徳川家の親類筋もしくは幕府から厚く信頼されていた譜代の家柄が領主に選ばれている。

 余談だが、越智松平家も後に老中を輩出している。
そして、藩主が任命されていない期間は、甲斐と同じく幕府の直轄領とされた。

 なお、康政の時代には、早くも日光への街道整備がスタートしている。
これについては別の機会に書きたいが、日光と江戸や京都を結ぶ街道整備は、幕府にとって喫緊の課題であったからだ。

 中山道だけでなく、館林には越後からの三国街道のほか、さまざまな主要幹線が集中している。
有事の際には、各方面に軍勢を派遣する最前線基地にもなるということだ。
これは、北関東の現在の高速道路網や一般の幹線道路網などを見ると理解しやすい。

 それらの事情と、江戸時代(特に前期)に東西を結ぶ幹線として中山道が選ばれていたことを重ね合わせると、館林がいかに重要な場所だったのかが見えてくる。
「四天王」の1人が初代領主に選ばれたのも、納得がいくというわけだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)

【※】榊原康政 ニコニコ

【※】正田(しょうだ)家
1958年、皇室初まって依頼はじめて庶民の中から妃が選ばれました。
館林の正田家出身の正田美智子です。


畠山重忠。武蔵武士の鑑(かがみ)。埼玉県嵐山

愛馬を背負って「ひよどり越え」をする畠山重忠の勇姿
嵐山町web博物誌
--(1164-1205)--
畠山重忠は、鎌倉時代に活躍した武将で、鎌倉幕府を開くときにも力をつくし、源頼朝にたいへん信頼されていました。
 平氏全盛の時代に、現在の、埼玉県深谷市畠山で生まれ、、嵐山町に屋敷を構えていました。重忠は、源義経とともに一の谷や屋島で平氏と戦い、奥州征伐でも活躍したといわれています。
 しかし、北条氏の陰謀により、42歳で討ち死にしました。
  武勇のほまれ高く、潔白な人柄から「坂東武士の鑑(かがみ)」とよばれました。

畠山重忠  嵐山史跡の博物館

畠山重忠辞典 - 深谷市  年表

新発田市(しばたし)、忠臣蔵の堀部安兵衛をアピール

【2-1】 (新潟日報社、文・鈴木孝実、写真・本間美季子)引用編集
義士堂で赤穂浪士四十七士の木像などを眺める武庸会の嶋谷次郎八会長(左)と、長徳寺の関根正隆副住職。2012

 赤穂浪士四十七士の中で人気のある堀部安兵衛は、新潟県新発田市生まれ。
だが「名前は知っているけれど...」と、市民に特別な地元意識があるわけではない。
忘れられてはならないと、市民団体を中心に地域はPRに本腰を入れている。

 堀部安兵衛武庸(たけつね)から名を取った市民団体「武庸会」は毎年、討ち入りのあった12月14日に法要などを行う「義士祭」を開き、顕彰してきた。

2013年は設立100周年。会員は安兵衛のファンで活動には力が入る。
安兵衛誕生月のことし5月には市民らに呼び掛け、「生誕地まつり」と銘打ち、1カ月間にわたる企画を初めて実施した。

 5月10日正午には、四十七士の演目で人気となった明治・大正の浪曲師、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が100年前の同日同時刻に安兵衛の父の菩提(ぼだい)寺、長徳寺で写真を撮っていたことにちなみ、撮影会を開催した。

 期間中は安兵衛の「高田馬場の決闘」の朗読劇などのイベントも開き、にぎわいを生み出した。嶋谷次郎八(しまや・じろうはち)会長(70)は「この好機を逃さず、新発田の安兵衛をアピールしていきたい」と意気込む。

 
 今後、PRの目玉と考えているのが長徳寺にある「義士堂」。
お堂は1929年に雲右衛門が寄贈した四十七士の木像を納めるために建てられた。
昨年の調査で、天井画57枚は時の政治家や軍人が描いたものと判明。
文化財的価値も分かって、一層盛り上がり、次の「一手」に知恵を絞る。
新発田市は、地元の歴史的遺産を活用したまちづくりに取り組んでおり、市内の武庸橋の整備なども進めている。
 官民挙げて「安兵衛のまち」として全国に"討ち入り"する。

川越百景

川越百景は、2012年(平成24年)制定。
川越百景詳細。