日野富子。応仁(おうにん)の乱を始め、戦国時代の口火を切る。6月30日没

日野富子。 応仁(おうにん)の乱を始め、戦国時代の口火を切る。6月30日没 

日野富子

・1440年 - 1496年6月30日  (室町後期から戦国時代)

日野富子は、室町幕府 第8代将軍 足利義政の妻です。
夫とは別性を名乗っています。

第8代将軍 義政の
弟 義視(よしみ)が  
後継ぎになることになっていました。


その直後、日野富子が、長男を生みました。

日野富子は、わが子を
将軍にすることにし
山名宗全(やまな そうぜん)とむすびました。

対して、第8代将軍 義政の弟 義視派は、細川勝元と組みました。


日野富子は、
応仁(おうにん)の乱をはじめました。
1467年から11年間、京都を中心にした戦乱です。

室町幕府の力はおとろえ、
以後100年間におよぶ戦国時代へとうつっていきました。


【7分】11年にも及んだ応仁の乱!引き金を引いた女…日野富子【漫画】


昔は女性が活躍:アマテラス、ヒミコ、紫式部、清少納言、北条政子、日野富子

8代・足利義政の妻・日野富子などは、大いに権勢をふるいました。


【NPO武蔵観研 通信】357号:2023年6月28日

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【NPO武蔵観研 通信】357号:2023年6月28日       

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恒例「川越みがきのつどい」2023年7月18日  18:30~20:30

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・川合善明     川越市長    (「川越の観光」)
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・都筑稔 日本薬科大学 学長

   有志           1分スピーチ

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徳川家康の東海での戦い: 桶狭間、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手 <徳川つれづれ pg

 徳川家康の東海での戦い: 桶狭間、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手   <徳川つれづれ pg


徳川家康の東海での戦い: 桶狭間、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手

徳川家康の戦いの東海編です。

1560  (19歳) 桶狭間の戦い、
1572  (31歳) 三方ヶ原の戦い、
1575 (34歳) 長篠の戦い、
1584  (43歳) 小牧・長久手の戦い  


1560年(19歳) 桶狭間の戦いにて今川義元 戦死。岡崎にて自立

  今川義元は、寛大でした。
人質 徳川家康を自分の有力武将に育てようと、丁寧に遇します。
軍師 太原雪斎が徳川家康の教育に当たりました。
岡崎の徳川家臣たちも徳川家康と駿河ですごしています。

今川義元は、政治経済に明るいすぐれた大名でした。
平和で安全な駿河には京風文化や学問が発達しました。
今川義元をシニセの企業とすると、織田信長はイケイケのブラック企業です。 

今川家の子孫は、
江戸時代には徳川家に召し抱えられ、
品川に屋敷を与えられました。
徳川家康は、江戸幕府を開いてからは、人質時代の思い出の「駿府」で暮らしています。


・・・・・・・・・・・
1572  (31歳)    三方ヶ原の戦い    武田氏に大敗
  三方ヶ原(みかたがはら)は遠江 浜松域の北にあります。
武田信玄(52歳)は短期決戦で攻めてきました。
徳川軍は総崩れになり、大敗北となりました。
しかし武田信玄は病が悪化し、死去しました。
徳川家康は武田信玄とのハイレベルな戦いで切磋琢磨し、
天下人の素地を蓄えました。
  武田信玄は、天台の僧侶でした。
織田信長の比叡山焼き討ちでは、
徳川3代将軍家康、秀忠、家光の相談役 天海僧正を自領に迎え入れました。
  武田信玄の祖先は、由緒ある甲斐源氏です。
祖は源義光(新羅三郎)です。
武田信玄は「信玄堤」など民政にも心を配り、
今でも県民から慕われています。
「信玄公」は神様扱いです。

  徳川家康のゆかりの地は
生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡(駿府)
です。
  
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城ですごしました。
浜松時代に試練にみまわれ、出世しました。
幕府の要職に登用された城主も多いです。

姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の戦いも浜松での出来事です。
  現在の浜松市(80万人)には、スズキ、ヤマハ、ホンダ、カワイなど本社をおく大企業が目立ちます。
進取の気に富む土地柄です。

岡崎(38万人)域にはトヨタが控えています。

静岡市( 70万人)は駿府城、東照宮などの文化のマチです。


・・・・・・・・・・・

1575 (34歳) 長篠の戦い 織田軍と組んで武田勝頼を破る 長篠の戦いは、武田信玄の後継者 武田勝頼軍を織田・徳川軍が、兵力の差で打ち破った戦いです。 馬防柵での防御が有名です。


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1584 (43歳) 小牧・長久手の戦い 豊臣軍と1年以上戦う この戦いは織田の家督をめぐる争いです。 長男 織田信忠、嫡男 豊臣秀吉 次男 織田信雄、徳川家康 3男 織田信孝、柴田勝家 豊臣秀吉は家督争いを有利に進めます。 3男 織田信孝、柴田勝家陣営は、 豊臣秀吉に敗れて織田信孝も柴田勝家も自害します。 次男 織田信雄、徳川家康連合は、小牧・長久手の戦いを始めます。 豊臣秀吉は徳川家康にかないませんでした。 しかし豊臣秀吉は、織田信雄を攻めて降伏させました。 結果、徳川家康は豊臣秀吉と和議を結ぶことになってしまいました。

ともあれ、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康は見事な采配をしました。












徳川家康のゆかりの地「生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡)」 <徳川つれづれ pg

  徳川家康のゆかりの地「生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡)」  <徳川つれづれ pg


 


 徳川家康のゆかりの地は「生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡(駿府)」です。

岡崎、浜松、静岡

  徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城ですごしました。

浜松時代に試練にみまわれ、出世しました。
幕府の要職に登用された城主も多いです。

    姉川、
    三方ヶ原、
    長篠、
    小牧・長久手の戦いも

浜松での出来事です。

  現在の浜松市(80万人)には、スズキ、ヤマハ、ホンダ、カワイなど本社をおく大企業が目立ちます。
進取の気に富む土地柄です。

 

岡崎(38万人)域には世界のトヨタが控えています。


静岡市( 70万人)は駿府城、東照宮などの文化のマチです。


徳川家康の10大事件

 徳川家康の10大事件       


徳川家康
・1543年1月31日, 岡崎市- 1616年6月1日, 静岡市 。73歳


徳川家康の10大事件   

  1. 1560  (19歳)桶狭間の戦い  今川義元 戦死  家康、岡崎城にて自立

  2. 1570  (29歳) 姉川の戦い  織田信長と共に浅井長政、朝倉義景に勝利

  3. 1572  (31歳) 三方ヶ原(みかたがはら)の戦い    武田氏に大敗

  4. 1575  (34歳) 長篠の戦い    織田軍と組んで武田勝頼を破る 

  5. 1582  (41歳) 5カ国を治める大名に  織田信長 が本能寺の変にて自死す

  6. 1584  (43歳) 小牧・長久手の戦い  豊臣軍と戦う  

  7. 1590  (49歳) 豊臣秀吉の小田原攻めにて先方を勤め、北条家を滅ぼす 

  8. 1590  (48歳) 豊臣秀吉により関東へ国替えとなる 

  9. 1600  (59歳) 関ヶ原の戦いに勝利。天下人に    

  10. 1614  (73歳) 大坂の陣  と1615年夏の陣で豊臣家を滅ぼす


【※】以下、やさしくわかりやすく。諸説あります。

1)1560年(19歳) 桶狭間の戦いにて今川義元 戦死。のちに岡崎城にて自立


桶狭間の戦い

【※】今川義元は、人質 徳川家康を自分の有力武将に育てようと、丁重に遇します。


太原雪斎が徳川家康の師匠です。
徳川家康の母も岡崎の家臣たちも駿河ですごしています。

今川義元は、政治経済に明るいすぐれた大名でした。
平和で安全な駿河には京風文化や学問が発達しました。

今川家の子孫は、江戸時代には徳川家に召し抱えられ、
品川に屋敷を与えられました。

徳川家康は、江戸幕府を開いてからは、
人質時代の思い出の駿府で暮らしています。


2)1570  (29歳)   姉川の戦い  織田・徳川 連合軍が浅井、朝倉 連合軍に勝利

姉川は、琵琶湖の北にあります。
浅井長政は、織田信長の妹 お市を正妻とし、信長とは同盟関係にありました。

姉川の戦いでは、浅井長政は朝倉義景に味方し、28歳で滅亡しました。


3)1572  (31歳)    三方ヶ原(みかたがはら)の戦い    武田氏に大敗

三方ヶ原の戦い 

三方ヶ原は遠江 浜松の北方
にあります。

徳川家康は遠江(とおとうみ)を3年前に平定していました。
武田信玄(52歳)は短期決戦で攻めてきました。
徳川軍は総崩れになり、大敗北となりました。

しかし武田信玄は病が悪化し、死去しました。
    徳川家康の生涯を三つの時期であらわすことがあります。
生誕の岡崎、出世の浜松、大御所の静岡(駿府)」 浜松市(80万人)には、 スズキ、ヤマハ、ホンダ、カワイなど本社をおく大企業が目立ちます。


4)1575  (34歳)    長篠の戦い    織田軍と組んで武田勝頼を破る 


三河 長篠の戦い
武田信玄の後継者 武田勝頼軍を織田・徳川軍が、兵力の差で打ち破った戦いです。
馬防柵での防御が有名です。


5)1582  (41歳)    甲斐・信濃を奪い、5カ国を治める大名となる
    
織田信長 が本能寺の変にて暗殺


【※】本能寺の変は、
成り上がりのイケイケ企業の社長 織田信長に、
こきつかれてクタクタになった明智光秀のしわざ
です。

織田信長の日本統一計画は、豊臣秀吉、徳川家康とに受け継がれました。


6)1584  (43歳)   小牧・長久手の戦い 

【※】織田信長を継いだ豊臣軍と1年以上戦い、講和  

小牧・長久手の戦い 
織田の家督候補:
長男 織田信忠、その嫡男   <豊臣秀吉
次男 織田信雄、徳川家康
3男  織田信孝、柴田勝家

織田の家督を誰が継ぐかを豊臣秀吉は有利に進めます。

3男 織田信孝、柴田勝家陣営は、戦いで、豊臣秀吉に敗れて
織田信孝も柴田勝家も自害します。

残るのは次男 織田信雄、徳川家康連合です。
小牧・長久手の戦い が始まります。
とどのつまり、
豊臣秀吉は徳川家康にかないませんでした。

豊臣秀吉は、次の手として、次男 織田信雄を攻めて降伏させました。
結果、徳川家康は豊臣秀吉と和議を結ぶことになってしまいました。

ともあれ、小牧・長久手の戦い では、徳川家康は見事な采配をしました。
柴田勝家の二の舞いをのがれました。


7)1590  (49歳)   小田原攻めにて先方を勤め、北条家を滅ぼす 

小田原攻め

四国、九州も支配下にした豊臣秀吉にとって残るのは
関東の北条氏と東北の伊達氏
でした。

1590年豊臣秀吉は20万の大軍で小田原城を包囲します。
小田原城内では「降伏」か「籠城」かで小田原評定が続きます。

豊臣秀吉は北条氏政に切腹を命じ、子の北条氏直を高野山へ追放します。
5代続いた北条氏は滅びました。



8)1590  (48歳)   家康、豊臣秀吉により関東へ国替えとなる 


関東へ国替え

1590年、徳川家康は豊臣秀吉によって関東への国替えを命じられました。
関東は戦国時代の混乱の影響を受けていた地域で、徳川家康はこの地を統治することで勢力を拡大しました。
この国替えによって、徳川家康の勢力は更に強まり、後に江戸幕府を開く基盤となります。


9)1600  (59歳)    関ヶ原の戦いに勝利。天下人に    

【※】
関ヶ原の戦いは、1600年に徳川家康の東軍と石田三成の西軍が
関ケ原(岐阜県)で戦った戦いです。

東軍が勝利しました。これによって徳川家康が日本を統一します。
戦国時代の終わりと江戸時代の始まりを象徴する戦いでした。


10)1614  (73歳)    大坂の陣。冬の陣と1615年の夏の陣で豊臣家を滅ぼす
【※】
大坂の陣は、1614年から1615年にかけて行われた戦いで、徳川家康は、豊臣家を滅ぼしました。

大坂の陣で、
豊臣秀頼(秀吉の息子)などの豊臣家の勢力は壊滅しました。この勝利により、徳川家康の支配体制が確立しました。

  安定した政治と経済により、平和な時代を築きました。




戦国武将:今川義元 武田信玄 上杉謙信 織田信長 豊臣秀吉(リンクを追加)<徳川 つれづれ pg

戦国武将(誕生順)<徳川 つれづれ pg


 戦国大名 (誕生順)


徳川家康  #2  #3(1543年1月31日ー1616年6月1日。73歳)
    酒井重忠        天海
【※】織田信長は8歳年上、豊臣秀吉は6歳年上    
・・・・・・・・・・・

今川義元 (1519-1560。41歳) 徳川家康とは主従関係

武田信玄   #2    #3(1521-1573。51歳) 徳川家康とは対立関係    
上杉謙信 (1530-1578。48歳) 徳川家康とは同盟関係

織田信長 #2  #3  #4 #5(1534-1582。47歳) 徳川家康とは同盟関係 

豊臣秀吉 (1537-1598。61歳) 徳川家康とは対立・主従関係 


ほぼ50歳が寿命でした。
徳川家康の73歳は、特別です。
100歳以上生きた 天海僧正 の影響も。