山・鉾・屋台行事(やま ほこ やたいぎょうじ)がユネスコ無形文化遺産に
八戸三社大祭の山車行事
〔読み〕はちのへさんしゃたいさいのだしぎょうじ
〔所在地〕青森県八戸市
角館祭りのやま行事
〔読み〕かくのだてまつりのやまぎょうじ
〔所在地〕秋田県仙北(せんぼく)市
土崎神明社祭の曳山行事
〔読み〕つちざきしんめいしゃさいのひきやまぎょうじ
〔所在地〕秋田市
花輪祭の屋台行事
〔読み〕はなわまつりのやたいぎょうじ
〔所在地〕秋田県鹿角(かづの)市
新庄まつりの山車行事
〔読み〕しんじょうまつりのやたいぎょうじ
〔所在地〕山形県新庄市
日立風流物
〔読み〕ひたちふりゅうもの
〔所在地〕茨城県日立市
烏山の山あげ行事
〔読み〕からすやまのやまあげぎょうじ
〔所在地〕栃木県那須(なす)烏山市
鹿沼今宮神社祭の屋台行事
〔読み〕かぬまいまみやじんじゃさいのやたいぎょうじ
〔所在地〕栃木県鹿沼市
秩父祭の屋台行事と神楽
〔読み〕ちちぶまつりのやたいぎょうじとかぐら
〔所在地〕埼玉県秩父市
川越氷川祭の山車行事
〔読み〕かわごえひかわまつりのだしぎょうじ
〔所在地〕埼玉県川越市
佐原の山車行事
〔読み〕さわらのだしぎょうじ
〔所在地〕千葉県香取(かとり)市
高岡御車山祭の御車山行事
〔読み〕たかおかみくるまやままつりのみくるまやまぎょうじ
〔所在地〕富山県高岡市
魚津のタテモン行事
〔読み〕うおづのたてもんぎょうじ
〔所在地〕富山県魚津市
城端神明宮祭の曳山行事
〔読み〕じょうはなしんめいぐうさいのひきやまぎょうじ
〔所在地〕富山県南砺(なんと)市
青柏祭の曳山行事
〔読み〕せいはくさいのひきやまぎょうじ
〔所在地〕石川県七尾(ななお)市
高山祭の屋台行事
〔読み〕たかやままつりのやたいぎょうじ
〔所在地〕岐阜県高山市
古川祭の起し太鼓・屋台行事
〔読み〕ふるかわまつりのおこしだいこやたいぎょうじ
〔所在地〕岐阜県飛騨(ひだ)市
大垣祭のやま行事
〔読み〕おおがきまつりのやまぎょうじ
〔所在地〕岐阜県大垣市
尾張津島天王祭の車楽舟行事
〔読み〕おわりつしまてんのうさいのだんじりぶねぎょうじ
〔所在地〕愛知県津島市、愛西(あいさい)市
知立の山車文楽とからくり
〔読み〕ちりゅうのだしぶんらくとからくり
〔所在地〕愛知県知立市
犬山祭の車山行事
〔読み〕いぬやままつりのやまぎょうじ
〔所在地〕愛知県犬山市
亀崎潮干祭の山車行事
〔読み〕かめざきしおひまつりのだしぎょうじ
〔所在地〕愛知県半田市
須成祭の車楽船行事と神葭流し
〔読み〕すなりまつりのだんじりぶねぎょうじとみよしながし
〔所在地〕愛知県蟹江(かにえ)町
鳥出神社の鯨船行事
〔読み〕とりでじんじゃのくじらぶねぎょうじ
〔所在地〕三重県四日市(よっかいち)市
上野天神祭のダンジリ行事
〔読み〕うえのてんじんまつりのだんじりぎょうじ
〔所在地〕三重県伊賀(いが)市
桑名石取祭の祭車行事
〔読み〕くわないしどりまつりのさいしゃぎょうじ
〔所在地〕三重県桑名市
長浜曳山祭の曳山行事
〔読み〕ながはまひきやままつりのひきやまぎょうじ
〔所在地〕滋賀県長浜市
京都祇園祭の山鉾行事
〔読み〕きょうとぎおんまつりのやまほこぎょうじ
〔所在地〕京都市
博多祇園山笠行事
〔読み〕はかたぎおんやまかさぎょうじ
〔所在地〕福岡市
戸畑祇園大山笠行事
〔読み〕とばたぎおんおおやまがさぎょうじ
〔所在地〕福岡県北九州市
唐津くんちの曳山行事
〔読み〕からつくんちのひきやまぎょうじ
〔所在地〕佐賀県唐津市
八代妙見祭の神幸行事
〔読み〕やつしろみょうけんさいのしんこうぎょうじ
〔所在地〕熊本県八代市
日田祇園の曳山行事
〔読み〕ひたぎおんのひきやまぎょうじ
〔所在地〕大分県日田市
日本を嫌っていても日本旅行に行きたがる中国人
日本を嫌っていても日本旅行に行きたがる中国人
2016-12-18 Searchina
日本政府観光局によれば、2016年1-10月に日本を訪れた中国人外客数は551万2700人に達した。15年の中国人訪日客数は過去最高を記録したが、16年はそれをさらに上回るペースとなっている。
中国メディアの一点資訊は15日、日本を訪れる中国人が増えていることに対し、「日本を嫌いだと口にしながらも、実際には日本旅行が好きでたまらない中国人がいる」と伝えつつ、中国人から見た日本の魅力について考察している。
記事は、日中国民を対象に行われた世論調査では「日本に対して親しみを感じない中国人の割合は非常に高い」にもかかわらず、日本を訪れる中国人は年々増加していると指摘。「日本を嫌っていたはずの中国人が日本に行きたがるなんて、いったい日本は中国人に対して何の薬を飲ませたのか」と形容したうえで、日本には中国人を惹き付けるどのような魅力があるのだろうかと疑問を投げかけた。
続けて、中国人を惹き付ける日本の魅力について、まずは「空気がきれいで、透き通る空」を挙げ、大気汚染が深刻化する中国に対し、「日本の空気のきれいさはアジア随一だ」と主張。さらに、静かできれいな街も中国人にとっては日本の魅力の1つだと指摘した。
さらに、日本には中国人がほしいと思う製品が数多くあり、街を歩いていて見かけるドラッグストアは中国人にとって非常に楽しい場所であると紹介。また、日本のサービスは「世界最高水準」であり、買い物をしていても微笑みながら対応してくれる店員のサービスは非常に気持ちの良いものだとした。
また、購入した製品をどこかで失くしてしまっても、日本では「警察に落とし物として届いている可能性が高い」と指摘、スリや窃盗に対する心配もなく、安心して滞在できる治安の良さも魅力だと主張したうえで、こうした魅力こそ中国人が日本に惹き付けられる理由であり、「日本を嫌いだと口にしながらも、実際には日本旅行が好きでたまらない中国人がいる」理由だと論じた。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
2016-12-18 Searchina
日本政府観光局によれば、2016年1-10月に日本を訪れた中国人外客数は551万2700人に達した。15年の中国人訪日客数は過去最高を記録したが、16年はそれをさらに上回るペースとなっている。
中国メディアの一点資訊は15日、日本を訪れる中国人が増えていることに対し、「日本を嫌いだと口にしながらも、実際には日本旅行が好きでたまらない中国人がいる」と伝えつつ、中国人から見た日本の魅力について考察している。
記事は、日中国民を対象に行われた世論調査では「日本に対して親しみを感じない中国人の割合は非常に高い」にもかかわらず、日本を訪れる中国人は年々増加していると指摘。「日本を嫌っていたはずの中国人が日本に行きたがるなんて、いったい日本は中国人に対して何の薬を飲ませたのか」と形容したうえで、日本には中国人を惹き付けるどのような魅力があるのだろうかと疑問を投げかけた。
続けて、中国人を惹き付ける日本の魅力について、まずは「空気がきれいで、透き通る空」を挙げ、大気汚染が深刻化する中国に対し、「日本の空気のきれいさはアジア随一だ」と主張。さらに、静かできれいな街も中国人にとっては日本の魅力の1つだと指摘した。
さらに、日本には中国人がほしいと思う製品が数多くあり、街を歩いていて見かけるドラッグストアは中国人にとって非常に楽しい場所であると紹介。また、日本のサービスは「世界最高水準」であり、買い物をしていても微笑みながら対応してくれる店員のサービスは非常に気持ちの良いものだとした。
また、購入した製品をどこかで失くしてしまっても、日本では「警察に落とし物として届いている可能性が高い」と指摘、スリや窃盗に対する心配もなく、安心して滞在できる治安の良さも魅力だと主張したうえで、こうした魅力こそ中国人が日本に惹き付けられる理由であり、「日本を嫌いだと口にしながらも、実際には日本旅行が好きでたまらない中国人がいる」理由だと論じた。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
川越では、空き家が激増。住宅の立地誘導が必要。nk2016-12-18谷隆徳
週刊現代 2016-12-12
ぶちぬき大特集 ”老いる家 傾くマンション くずれるまち”
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空き家が激増。住宅の立地誘導が必要
2016/12/18 時流 論説委員 谷隆徳 *タイトルを一部修正
全国で空き家の増加が問題になっている。人口減少社会に突入し、住宅に対する需要が徐々に減ってきたことだけが理由ではない。供給面からみると、もうひとつ別の理由が浮かび上がってくる。
蔵造りの町並みが「小江戸」と呼ばれ人気の埼玉県川越市。市内の南東部に向かうと近隣に農地もある地区の一角に、まだ真新しい建売住宅群が見えてくる。ここは開発を抑制する市街化調整区域だが、市が条例で規制緩和し、建設が可能になった物件だ。
市が規制緩和に踏み切ったのは2006年5月。道路への接続など一定の条件をつけたものの、それ以降どこでも住宅を建てられるようになった。市の想定以上に宅地開発は進み、5年半の間に開発許可を受けた件数は約1400件、5700区画に上った。
その結果、市の人口は増えた一方で、突然の開発ラッシュが周囲の環境を変えた。生活排水の流入に伴う水路の悪臭に対して、近隣の農家などから苦情が殺到した。新たな宅地では公共下水道の代わりに浄化槽を設置しているが、新住民の維持管理がずさんだったために起きた事態だ。
逆に、新住民からは農薬散布や堆肥のにおいに不満が上がった。地価が安い調整区域に開発がシフトした結果、街なかでの不動産取引が落ち込むという副作用もあった。
「子育て世代が増えるなどプラス面もあったが、虫食い開発に伴う弊害が広がってきた」(刀根則明・市開発指導課長)と、市は11年10月に開発に対する規制を06年以前の状況に戻した。現在、市はコンパクトな街づくりへ、かじを切り始めている。
行き過ぎた規制緩和を見直した川越市はまだいいのだろう。今も全国各地で宅地開発が続いている。13年だけでも、東京ドーム約960個分に当たる4500ヘクタールの農地が住宅地に変わった。
日本の住宅建設の大きな問題点は、再建築率が著しく低いことだ。住宅着工戸数全体に対する、古い住宅を壊して建てた住宅の割合を表す指標である。
国土交通省によると、14年度の再建築率は9.1%で、調査を始めた1988年度以降、最低だった。低下傾向が続き、初めて10%を割った。
大ざっぱにいうと、10カ所で住宅が建設されても、古い住宅を取り壊して新しく造られるのは1カ所に満たない。かつての川越市のように、農地などでの開発圧力が今も強いことを示している。
人口減少で住宅需要が伸び悩む一方、供給面では古い物件をそのまま残して、新規供給が続く。これが、空き家が急速に増えている、もうひとつの理由だ。
その結果、老朽化した家屋の後始末に追われているのが全国の自治体だ。最近でも、兵庫県姫路市や鳥取市、福岡県宗像市などが、倒壊する危険がある空き家を強制的に撤去した。費用は所有者に請求するのが原則だが、これまで行政が撤去した住宅の大半は、所有者が死亡して相続も放棄されているなど、現所有者がわからない物件である。
今後、日本は「多死社会」に突入する。維持管理の手間や税負担を嫌って親の家屋を引き継がない動きがさらに広がれば、行政任せになる空き家が爆発的に増えるだろう。
空き家の発生を抑えるにはまず中古住宅の流通市場を整備し、売買を活性化する必要がある。そのためにも「アパート建設を結果的に促すような税制のゆがみを直すと同時に、市場参加者が共有できる住宅建設の目安を国が示すべきだ」と日本大学の中川雅之教授は話す。中川教授は10年後の着工数について「現在の3分の2から半分程度が妥当な水準ではないか」とみる。
加えて、新築住宅は「長期優良住宅」のように耐久性に優れ、間取りの変更や維持管理もしやすい物件を中心にすべきだろう。その方が築年数がたっても取引しやすくなる。しかし、しっかりとした住宅だからといって、どこに建ててもいいわけではない。
長岡技術科学大学の樋口秀准教授が実施した調査をみると、新潟県長岡市で09年6月から2年間に認定を受けた長期優良住宅の17%は、市街化調整区域に建てられていた。市街化区域でも中心部の物件は少ない。調整区域内の物件などは将来、コンパクトな街づくりを進めるうえで、むしろ障害になる可能性がある。
人口に続いて20年ごろには世帯数も減少に転じ、住宅需要は本格的に減り始める。空き家の増加、それに伴う街の荒廃を防ぐためには、住宅を誘導する区域を都市計画でしっかりと定めることが欠かせないのだろう。
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【参考】
野澤千絵 『老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 』
※ 川越について
第1章2 新築住宅がつくり続けられるまち 62- 83
わが国は、都市を成長させる時代は終わり、都市をより成熟させていく時代に突入しました。
子供が巣立った家にリフォームが必要なように、これからは、都市にもリフォームが必要なのです。
今後、都市をより質の高いものへとリフォームしていくためには、建築を、個別敷地単位ではなく、周辺の住環境や地域全体の都市とのつながりや関わりの中で考える視点と実践が必要不可欠です。個々の建築と都市とのつながり方・関わり方、それを決めていくプロセスといったものをデザインするのが、都市計画・まちづくりと言えるでしょう。
野澤研究室での活動を通して、誰もが心安らかに、心豊かに暮らせる街の実現をめざして、新たな都市計画・まちづくりのあり方を学生の皆さんと一緒に模索・提案していければと思っています。
東洋大学 建築学科 野澤 千絵・・・・・・・・・・・
アマゾン レビュー
これからは成長が望めぬ社会。by平川克美
成長望めぬ社会 平川克美さんに聞く
皆で不満分かち合おう 若者は気づいている
経済成長を前提としたシステムが揺らぎ始めている
2016/12/3 nk ※→桑原政則注
米大統領選でのドナルド・トランプ氏の勝利に英国のEU離脱、そして相次ぐテロ。先進国が人口増大から人口減少へ、経済成長社会から物価などが下がって全体としてバランスするような「定常化経済社会」へと移行する文明史的転換期を迎え、「移行期的混乱」にあるのが背景と、事業家・文筆家で立教大学大学院客員教授の平川克美さん(66)は説く。
「国民国家、デモクラシー、インターナショナリズムといった世界秩序の根幹が揺らぎ始め、代わってグローバル市場、強権的指導者による迅速な意思決定システム、排外的な競争主義としてのナショナリズムという新秩序がつくられようとしています。おおまかに言ってこのように今の世界をみています」
「旧来の価値観が揺らいでいる大きな原因は、先進国では経済成長が難しくなったということでしょう。株式会社は経済成長を前提としたシステム。成長するから投資家は出資する。金利にしても年金にしても我々を取り巻く全てのシステムが成長を前提に形作られている。成長が止まってしまうと、システムの基盤が揺らいでいく」
「そりゃ、できれば成長した方がいい。しない方がいいとは思っていません。ただ、もう、難しくなっているんです。日本は向こう50年は人口減少フェーズが続く。人口減少はマーケットの減少につながる。いまは総需要は頭打ちで、物価が下がってバランスしている定常化経済の段階にあります」
政府などはデフレスパイラルに陥るのは良くない。かつてのような高度成長は無理だとしても、緩やかな成長が国民生活の安定につながるとの立場だ。
「成長論者は希望を言っているだけなんですね。成長すればすべてがうまく回る。成長してくれたらいいなと。だが、現実をよく見て下さい。日銀の物価上昇目標はいつまでたっても実現しない。所得格差は広がる一方です。定常化に即した経済運営がなされてない」
「若い人たちは気づいていますよ。私の大学の教え子は1990年代の生まれ。ものごころ付いた時から経済は定常化した状態にあります。我々の世代は年収500万円は見込めた。しかし今の若い人は大会社にでも入らないと300万円確保も難しい。だったら300万円でやっていく方向を探るしかない」
「実際にシェアハウスに住んだり、地方に移住して農業に従事したりと、定常化に合わせた生き方を選んでいる。それを悲観的にみる人もいますが、私はまったく悲観していません」
「三方一両損」という知恵を見直す
実家は東京・大田の町工場。大学卒業後に海外の技術書の翻訳会社を立ち上げ、米シリコンバレーでの起業支援やビジネスカフェ運営などを手掛けた。
「バブル時代は、自分の人生の中で、いちばんいやな時代でした。規制撤廃を叫ぶ新自由主義的な考えを持ち、増長していたのだと思います。しかし、間違っていたことに気づきました。小さな元手で大きく稼ぐというレバレッジ(=てこ)を効かせたビジネスはどうなのか。ものごとがうまくいかなくなったときは、本来に立ち戻ることが必要ではないのか。先だって、運営していたビジネスカフェ会社の経営をやめました。負債を抱えながらの投資はやめて、借金をなるべく返してしまおうというわけです」
「右肩上がりの時代は終わった。じゃあどうすればいいのか。そこで勧めるのが『小商い』という考え方です。小商いといっても、事業規模の小さい家業の意味ではありません。信用を基本に、リピート客を離さず、大もうけはできないが事業を継続していけるビジネスです。老舗旅館などにありますね。高齢化が進んでいますから、介護分野にもビジネスチャンスがあります。介護は利用者から信用を得ることが何より大事です。『正直商売』としての介護サービスなら、いくらでも需要がありますよ」
給料が上がっていった時代を知っている人には、成長のない社会は受け入れ難いかもしれない。
「いまは世界的に中間層がやせ細り、一部の成功者と多くの脱落組が生まれてしまう。日本も例外ではありません。いらだちは理解できますが、定常化経済社会が当面(※あと50年は)、続くのだという現実はしっかりと認識しておく必要があります。皆が互いにハッピーな『ウイン・ウイン』は右肩上がりのときだけです」
※定常化経済:経済成長なしの経済
「落語に『三方一両損』という噺(はなし)があります。皆が少しずつ損すれば問題は解決するという。本当は日本人はそれが得意なはずなんですよ。これからは、少しずつ不満を分け合うという意味の『ルーズ・ルーズ』という生き方にシフトしないといけない」
「7年前に『経済成長という病』という本を出したときは多くの反論が来ました。しかし、いまは賛同してくれる人が増えています。なかなか共感は得られないかもしれませんが、『ルーズ・ルーズ』と言い続ける人がいると、やがてスタンダードになっていくのではと思っています」
(シニア・エディター 大橋正也)
ひらかわ・かつみ 1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部卒。「隣町珈琲」店主、「ラジオデイズ」代表、立教大学大学院客員教授(担当科目はコーポレート・フィロソフィー)。著書に「グローバリズムという病」「経済成長という病」「路地裏の資本主義」「小商いのすすめ」「喪失の戦後史」など多数。
皆で不満分かち合おう 若者は気づいている
経済成長を前提としたシステムが揺らぎ始めている
2016/12/3 nk ※→桑原政則注
米大統領選でのドナルド・トランプ氏の勝利に英国のEU離脱、そして相次ぐテロ。先進国が人口増大から人口減少へ、経済成長社会から物価などが下がって全体としてバランスするような「定常化経済社会」へと移行する文明史的転換期を迎え、「移行期的混乱」にあるのが背景と、事業家・文筆家で立教大学大学院客員教授の平川克美さん(66)は説く。
「国民国家、デモクラシー、インターナショナリズムといった世界秩序の根幹が揺らぎ始め、代わってグローバル市場、強権的指導者による迅速な意思決定システム、排外的な競争主義としてのナショナリズムという新秩序がつくられようとしています。おおまかに言ってこのように今の世界をみています」
「旧来の価値観が揺らいでいる大きな原因は、先進国では経済成長が難しくなったということでしょう。株式会社は経済成長を前提としたシステム。成長するから投資家は出資する。金利にしても年金にしても我々を取り巻く全てのシステムが成長を前提に形作られている。成長が止まってしまうと、システムの基盤が揺らいでいく」
「そりゃ、できれば成長した方がいい。しない方がいいとは思っていません。ただ、もう、難しくなっているんです。日本は向こう50年は人口減少フェーズが続く。人口減少はマーケットの減少につながる。いまは総需要は頭打ちで、物価が下がってバランスしている定常化経済の段階にあります」
政府などはデフレスパイラルに陥るのは良くない。かつてのような高度成長は無理だとしても、緩やかな成長が国民生活の安定につながるとの立場だ。
「成長論者は希望を言っているだけなんですね。成長すればすべてがうまく回る。成長してくれたらいいなと。だが、現実をよく見て下さい。日銀の物価上昇目標はいつまでたっても実現しない。所得格差は広がる一方です。定常化に即した経済運営がなされてない」
「若い人たちは気づいていますよ。私の大学の教え子は1990年代の生まれ。ものごころ付いた時から経済は定常化した状態にあります。我々の世代は年収500万円は見込めた。しかし今の若い人は大会社にでも入らないと300万円確保も難しい。だったら300万円でやっていく方向を探るしかない」
「実際にシェアハウスに住んだり、地方に移住して農業に従事したりと、定常化に合わせた生き方を選んでいる。それを悲観的にみる人もいますが、私はまったく悲観していません」
「三方一両損」という知恵を見直す
実家は東京・大田の町工場。大学卒業後に海外の技術書の翻訳会社を立ち上げ、米シリコンバレーでの起業支援やビジネスカフェ運営などを手掛けた。
「バブル時代は、自分の人生の中で、いちばんいやな時代でした。規制撤廃を叫ぶ新自由主義的な考えを持ち、増長していたのだと思います。しかし、間違っていたことに気づきました。小さな元手で大きく稼ぐというレバレッジ(=てこ)を効かせたビジネスはどうなのか。ものごとがうまくいかなくなったときは、本来に立ち戻ることが必要ではないのか。先だって、運営していたビジネスカフェ会社の経営をやめました。負債を抱えながらの投資はやめて、借金をなるべく返してしまおうというわけです」
「右肩上がりの時代は終わった。じゃあどうすればいいのか。そこで勧めるのが『小商い』という考え方です。小商いといっても、事業規模の小さい家業の意味ではありません。信用を基本に、リピート客を離さず、大もうけはできないが事業を継続していけるビジネスです。老舗旅館などにありますね。高齢化が進んでいますから、介護分野にもビジネスチャンスがあります。介護は利用者から信用を得ることが何より大事です。『正直商売』としての介護サービスなら、いくらでも需要がありますよ」
給料が上がっていった時代を知っている人には、成長のない社会は受け入れ難いかもしれない。
「いまは世界的に中間層がやせ細り、一部の成功者と多くの脱落組が生まれてしまう。日本も例外ではありません。いらだちは理解できますが、定常化経済社会が当面(※あと50年は)、続くのだという現実はしっかりと認識しておく必要があります。皆が互いにハッピーな『ウイン・ウイン』は右肩上がりのときだけです」
※定常化経済:経済成長なしの経済
「落語に『三方一両損』という噺(はなし)があります。皆が少しずつ損すれば問題は解決するという。本当は日本人はそれが得意なはずなんですよ。これからは、少しずつ不満を分け合うという意味の『ルーズ・ルーズ』という生き方にシフトしないといけない」
「7年前に『経済成長という病』という本を出したときは多くの反論が来ました。しかし、いまは賛同してくれる人が増えています。なかなか共感は得られないかもしれませんが、『ルーズ・ルーズ』と言い続ける人がいると、やがてスタンダードになっていくのではと思っています」
(シニア・エディター 大橋正也)
ひらかわ・かつみ 1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部卒。「隣町珈琲」店主、「ラジオデイズ」代表、立教大学大学院客員教授(担当科目はコーポレート・フィロソフィー)。著書に「グローバリズムという病」「経済成長という病」「路地裏の資本主義」「小商いのすすめ」「喪失の戦後史」など多数。
川越城:江戸の背後を守った城。 小柴 皐月
川越城:江戸の背後を守った城
小柴 皐月 2016年12月02日 老友新聞
東京からほど近い、小江戸と親しまれ趣きのある見どころも多い街川越。ちょっとした行楽気分で訪れることが出来る川越城をご紹介いたします。
川越城の創築は太田道灌父子と伝えられています。当時対立していた古河公方足利氏に対抗するために築城され、創築期の規模の資料はなく不明ですが、「川越記」などによると、入間川流域の段丘と低湿地を要害として、当初の規模は本丸・二の丸程度だったと考えられています。
後北條氏配下、小田原城の支城として重臣の大道寺氏が入場していましたが、天正十八年、豊臣秀吉による関東攻略時に前田利家により落城。その後、徳川家康が関東に移るに際し、江戸城の北の守り神と定め川越城を重視し、三河以来の重心であった酒井重忠を配しました。
その後も、江戸の北を固める重要な基点として、徳川家に忠誠を尽くす譜代が城主を歴任し、松平信綱、柳沢吉保の老中職をはじめ多くの幕臣の重鎮を送り出し、川越城は老中職の居城というイメージがあります。
平山城である川越城は武蔵野台地の北東端にあり、その防備には西から北を流れる入間川、北を赤間川、東を伊佐沼の自然の要害に囲まれています。比高差はないものの河川と沼沢地によって堅牢性が確保されてした城を、徹底した大改修を加え、老中職の居城にふさわしく生まれ変わらせたのは、寛政十六年に城主になった松平信綱です。
一国一城令、武家諸法度発布以降の城域拡大の例は大変少なく、信綱が許されたのは北の守りとしての重要性の他に、信綱が幼少時より家光の小姓として寵愛を受けていたことによると考えられています。
信綱は城下町の整備にも着手し、五の字型と呼ばれる町割りを基本とし、城を攻めにくく、守り易くするために、袋小路、七曲り、鍵の手などによる町割りの工夫をしています。
街道の整備、水運開発も特筆されるものです。水陸の流通路確保により、江戸に直結する物資供給地として栄え、文化面でも「小江戸」と呼ばれるまでに発展を遂げたのです。
川越城には嘉永元年に再建された御殿の玄関付近大広間と家老詰所のみが現存しています。全国的にも数少ない遺構です。玄関付近広間は御殿の中ても最大規模で、老樹の居城であったという格式と威厳が伝わってきます。
江戸時代に作られたといわれる、わらべ唄の「とおりゃんせ」は川越城が舞台だという説があります。天神様があった所にお城が出来てしまったため、「ご用のないものとおりゃせぬ」という歌詞になり、お城の中を通って七つの子のお祝いのお札を収めに行く……という歌です。壮大なスケールの城ではありませんが、当時の空気がひしひと伝わってくる城の一つです。
小柴 皐月 2016年12月02日 老友新聞
東京からほど近い、小江戸と親しまれ趣きのある見どころも多い街川越。ちょっとした行楽気分で訪れることが出来る川越城をご紹介いたします。
川越城の創築は太田道灌父子と伝えられています。当時対立していた古河公方足利氏に対抗するために築城され、創築期の規模の資料はなく不明ですが、「川越記」などによると、入間川流域の段丘と低湿地を要害として、当初の規模は本丸・二の丸程度だったと考えられています。
後北條氏配下、小田原城の支城として重臣の大道寺氏が入場していましたが、天正十八年、豊臣秀吉による関東攻略時に前田利家により落城。その後、徳川家康が関東に移るに際し、江戸城の北の守り神と定め川越城を重視し、三河以来の重心であった酒井重忠を配しました。
その後も、江戸の北を固める重要な基点として、徳川家に忠誠を尽くす譜代が城主を歴任し、松平信綱、柳沢吉保の老中職をはじめ多くの幕臣の重鎮を送り出し、川越城は老中職の居城というイメージがあります。
平山城である川越城は武蔵野台地の北東端にあり、その防備には西から北を流れる入間川、北を赤間川、東を伊佐沼の自然の要害に囲まれています。比高差はないものの河川と沼沢地によって堅牢性が確保されてした城を、徹底した大改修を加え、老中職の居城にふさわしく生まれ変わらせたのは、寛政十六年に城主になった松平信綱です。
一国一城令、武家諸法度発布以降の城域拡大の例は大変少なく、信綱が許されたのは北の守りとしての重要性の他に、信綱が幼少時より家光の小姓として寵愛を受けていたことによると考えられています。
信綱は城下町の整備にも着手し、五の字型と呼ばれる町割りを基本とし、城を攻めにくく、守り易くするために、袋小路、七曲り、鍵の手などによる町割りの工夫をしています。
街道の整備、水運開発も特筆されるものです。水陸の流通路確保により、江戸に直結する物資供給地として栄え、文化面でも「小江戸」と呼ばれるまでに発展を遂げたのです。
川越城には嘉永元年に再建された御殿の玄関付近大広間と家老詰所のみが現存しています。全国的にも数少ない遺構です。玄関付近広間は御殿の中ても最大規模で、老樹の居城であったという格式と威厳が伝わってきます。
江戸時代に作られたといわれる、わらべ唄の「とおりゃんせ」は川越城が舞台だという説があります。天神様があった所にお城が出来てしまったため、「ご用のないものとおりゃせぬ」という歌詞になり、お城の中を通って七つの子のお祝いのお札を収めに行く……という歌です。壮大なスケールの城ではありませんが、当時の空気がひしひと伝わってくる城の一つです。
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