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養寿院で晋山式(しんざんしき)。2014/03/29

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山梨県長昌寺の晋山式。2008年 養寿院と 2014/03/29晋山式のルート   出典 養寿院 曹洞宗の養寿院では、2014年3月29日、晋山式(しんざんしき)がおこなわれます。 金剛清輝・住職が、祖父、父の法灯を継ぎます。 晋山式とは、「山に晋(すす)む」こと、新住職就任の儀式です。 養寿院の山号は、青龍山です。 重要行事ですので、一番街(蔵造りの町並み)は交通規制が敷かれます。 養寿院は曹洞宗(そうとうしゅう)で禅宗に属します。 「只管打坐」(しかんたざ、ひたすら座禅)を旨とします。 川越の72の寺院のうち、曹洞宗は22を数え、天台宗の23に次ぎます。 道元が中国から伝えました。 本山は、福井県の永平寺、横浜市の總持寺の2カ所にあります。 駒澤大学、東北福祉大学、愛知学院大学、鶴見大学が系列大学です。 養寿院が属する總持寺系は、国際普及に熱心です。 アップルのスチーブ・ジョブスもシカゴの曹洞宗の禅寺で、心の拠り所を求めて、修行しました。 1591年、徳川家康は鷹狩りの際に養寿院に立ち寄り、御朱印十石を授けました。 川越では、養寿院は喜多院、蓮馨寺とならぶ御朱印寺でした。 河越重頼の五輪の塔 本堂左奥には、河越重頼の五輪の塔が見えます。 河越重頼の妻は源頼朝の子(頼家)を乳母として育てました。 河越重頼の娘は源義経の妻となりました。 養寿院 公式サイト 養寿院  【3+】

寛永寺の根本中堂は、喜多院から移築したもの

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寛永寺の根本中堂。川越・喜多院から移築 寛永寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう=本堂)は、 川越・喜多院から移築したものです。 1868年、寛永寺は 官軍に焼き尽くされました。 1879年、川越・喜多院の本地堂(講堂)を解体し、寛永寺に移築し本堂にしました。 喜多院の本地堂あとは、慈眼堂(じげんどう)と鐘楼門を結んで道路を横切った民家となっていま す。民家の裏は仙波仙芳塚(せんばせんぽうづか)となっています。 ※慈眼堂は、慈眼大師・天海をまつる御堂です。 喜多院の関係施設の地図 地図の8 が、本地堂(ほんちどう)の跡です。 拡大してごらんください。 出典  台東区教育委員会

5寺社が江戸城を守る。浅草寺の場合。

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江戸城を守る5寺社 江戸時代には、江戸城を5寺社が守っていました。 天海僧正の助言によるものです。 川越・喜多院の住職天海(1536-1648)は江戸の町を、     風水、神道、仏教、儒教、陰陽道(おんみょうどう)、呪術、民間信仰 で設計し、守りを固めました。 風水とは、環境学、地理学、天文学、哲学、宗教をあわせた快適生活学です。 風水はそのころの最新の学問でした。 <* 20年前の医学の常識は、今の常識ではありません。 今の医学の常識は20年後には非常識となリます。 100年後には今の医学は「足のくるぶし段階」であったことになるでしょう。> ◇                    ◇                    ◇ 浅草寺は「せんそうじ」と読みます。 お寺の名前は音読みで読むのが普通です。 たとえば、熊谷寺は「ゆうこくじ」となります。 浅草寺は徳川幕府の祈願寺です。 家康が祈願寺に定めました。 祈願寺(きがんじ)とは、     一族の繁栄や無事をお願いするお寺 です。 徳川家の厚遇により浅草寺は一段と発展しました。 浅草寺を祈願寺にしたのは、江戸城の鬼門封じになるとの天海の進言によるものです。 ◇                    ◇                    ◇ 浅草寺は、家康以前にも武将たちの信仰を集めていました。 源頼朝、北条政子、足利尊氏なども参詣(さんけい)し寄進しました。 江戸には江戸三十三観音札所があり、その一番札所が浅草寺(せんそうじ)です。 江戸三十三観音巡礼とは、霊験ある33の寺院を巡る旅です。 鬼門帯は陰陽が転化する不安定な方角 浅草寺 浅草寺史略年表 江戸三十三観音札所...

赤坂の山王日枝神社も江戸を守る

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多神教とは、他の民族の神をも認める「他神教」、「よその神も認める宗教」です。 これをアニミズム(animism、精霊崇拝)として、一神教はさげすみます。 しかし、多神教は、     他宗教の人間も、     動物も、     草木も、 いつくしみ、うやまう環境にやさしい平和教です。 「山川草木 悉皆有魂(しっかいゆうこん)」と考えます。 干支(えと)では、動物を自分の年とします。 一神教では、人間は自分を猿やネズミになぞらえることは考えられません。 赤坂の山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)には、サルとキツネが、神の使いとして鎮座(ちんざ)しています。 ◇                    ◇                    ◇ 独特の山王鳥居。2012年6月6日 急坂のためエスカレーターも 3基    赤坂の山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)は、 太田通灌が江戸城築城にあたり 、 川越・喜多院の鎮守・川越日枝神社を 勧請したのに始まります。 勧請(かんじょう)とは、ろうそくの火を移すようなものです。 徳川家康が江戸城の鎮守としました。 明治になり皇居を守る神社となりました。 東京のパワースポットとしても有名なです。 合掌型の鳥居は、山王鳥居とよばれます。 山王日枝神社は、皇居の裏鬼門にあり、皇居をお守りしています。 山王日枝神社の氏子代表は、東京都知事です。 神幸祭(しんこうさい) 山王まつりは毎年6月におこなわれます 山王まつりのなかで、神霊が降りてくる日は神幸祭(しんこうさい)となります。 当日は、8時から17時にわたり巡幸します。 神幸祭  【4】 昔は天下祭とよばれ、江戸城内まで繰り出しました。 天下人(てんかびと)とは将軍のことです。 山王日枝神社の本殿 マサル(魔去る) マサルさまが日吉神社の神の使いです。 京都御所...

日吉大社が比叡山、京、江戸を守る

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京都御所の東北部の角欠け(かくかけ) 。2009年8月 大津の日吉大社の主神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)です。 大きな山(=ひえの山)に杭(くい)を打って山を守っています。 「ひえ」は、のちに「日吉」の漢字が当てられました。 末社は、区別して、「日枝」と記されるようになりました。 日吉大社は、3800の日枝神社を有します。 ひえの山は、平安朝に入り「比叡」と記されるようになりました。 やがて字音に引きずられて、「ひえい」と呼ばれるようになりました。 山王宮曼荼羅図 src:http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/060911.html *     *     * 京の御所の鬼門にあたる比叡山が、御所を守り、 比叡山を日吉大社が守っています。 川越の日枝神社は、円仁が喜多院を創建したときに、守り神として860年に日吉大社から分霊したものです。 東京赤坂の山王日枝神社は、川越の日枝神社から、太田道灌が勧請(かんじょう、=分霊)したものです。 山王(さんのう)神社も、日枝神社と同じく、日吉大社の分霊社です。 ここで、山の王とは、「比叡山の王、すなわち大山咋神(おおやまくいのかみ)」のことです。 山王神社=日枝神社です。 江戸を寛永寺が守り、寛永寺を、川越から勧請した赤坂の山王日枝神社が守っています。 川越・喜多院の天海が寛永寺の住職となり、 江戸を守るしかけを施したので、川越は江戸の母とよばれることもあります。 日吉大社  > 地図 京都御所の角欠け(かくかけ)とは 赤坂の山王日枝神社は川越から 漢字「叡」の覚え方 「とわいち ははめ」 円仁

おびんづるさま:蓮馨寺、喜多院

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蓮馨寺(れんけいじ)のおびんづるさま おびんづるさまは、 さわって なでると すぐなおる ので、なで仏ともいわれます。 なでやすいように、本堂の外に置いてあります。 お釈迦様の弟子です。

神道、神社のページ

神道国際学会 神社 参拝の仕方 川越氷川神社 まとめ 氷川神社は出雲に由来 *     *     * 神社本庁

天海僧正が出家した龍興寺

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会津美里町の龍興寺 会津美里町の龍興寺は、848年円仁(えんにん)が開きました。 遣唐留学生の円仁は、唐の龍興寺に地形が似ているということで同じ名前を付けたといわれています。   円仁は、川越の喜多院・中院、松島の瑞巌寺、山形市の立石寺、岩手県の中尊寺、青森県恐山の円通寺のなどをひらいています。 円仁:中院、喜多院 天海僧正 天海僧正の両親の五輪の塔 「天海大僧正350年××記念」 龍興寺の蓮池 2000年前の種から発芽した大賀蓮(おおがはす)も咲き誇ります。 龍興寺・筧光海住職 伊達政宗から天海僧正への手紙 伊達政宗から天海僧正への手紙 「国宝  一字蓮台法華経」の標柱 一字蓮台法華経(いちじ れんだい ほけきょう) 一字蓮台法華経のズームアップ 一字蓮台法華経は、災厄を乗り越え800年以上にわたり保存されてきました。 福島県にある3つの国宝の一つです。 一字蓮台法華経

一字蓮台法華経

一字蓮台法華経(いちじれんだいほけきょう)は、 お経の文字一字一字が仏(ほとけ)さまそのものであると考えて、 蓮華(れんげ)の台の上に文字を書き写したものです。 一字一字が彩色してある蓮の台に乗っています。 まるで蓮華の花が開いたように描(えが)かれています。 蓮は、泥(どろ、世間)の中に生えていながら、泥に染まらず、清らかで美しい花を咲かせます。 平安後期に30名ほどの人たちが作成しました。 女性もまじっています。 朱、金、青、緑、白に彩色された蓮台の上方に、一字一字、約7万字を書き込みました。 一字ごとに極楽浄土への願望をこめた書く願経です。 タテが29センチ、全長は10メートルにおよびます。 法華経は、天台宗、日蓮宗では一番大切な経典です。 一字蓮台法華経 接写図 【cf.】 京都国立博物館 *     *     * 一字蓮台法華経の写真< 天海僧正が出家した龍興寺、会津美里町 ハス(蓮)

東照宮には、なぜトラの次にウサギが多い?

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このウサギは波をこわがっていません。 出典: http://redpanda.at.webry.info/200808/article_12.html 祖父家康を熱烈崇拝していた家光は、日光東照宮を全面的に建て替えます。 1636年に完成します。 東照宮には実在する動物の彫刻は120体あります。 虎が最多で38体です。 次ぎに多いのが兎で、19体あります。 家光の父の秀忠は、うさぎ年でした。 霊獣彫刻では、龍が最多です。 徳川3代の将軍のえとは、とら、う、たつと続きます。 「竜虎の戦い」の彫刻はありません。 虎(=家康)と竜(=家光)が戦う彫刻など、家光には恐れ多すぎることでした。 家康が38歳の時、2代秀忠が生まれました。 家光は自分が38歳の巳年のときに、男児が生まれるように、天海に念力祈願をおねがいしました。 1641年、4代将軍家綱が誕生しました。

大宮氷川神社、川越氷川神社、赤坂氷川神社

川越氷川神社- 大宮氷川神社- 赤坂氷川神社 大宮の氷川神社から、川越氷川神社勧請(かんじょう、のれん分け)されました。 川越氷川神社から、赤坂氷川神社が生まれました。 川越氷川神社 大宮氷川神社 赤坂氷川神社

諏訪のタケミナカタは、鹿島のタケミカヅチに敗れる

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タケミナカタとタケミカヅチの相撲(※1 ) 日の昇る東にある鹿島神宮と 日が沈む諏訪大社は、 東西の道で結ばれています。 鹿島は、大和政権の東国進出の際の拠点でした。 鹿島神宮の祭神は、 タケミカヅチ(建御雷神) です。 タケは勇ましいという意味です。 いくさの神、刀剣の神です。 「ミカヅチ」とは、雷のことです。 雷は古くは「いかずち」 といいました。 タケミカヅチ(建御雷)は、 オオクニヌシ(大国主)の息子のタケミナカタ(建御名方)に 国を譲れと迫り、戦いで勝ちました。 これにより、オオクニヌシ(大国主)は、 現世の神から幽界の神となり、 人の運命をつかさどるようになりました。 出雲大社はいまも縁結びで有名です。 敗れたタケミナカタ(建御名方)は 諏訪に引きこもり、 そこから出ないことを条件に許されました。 諏訪大社には敗者のタケミナカタ(建御名方)がまつられています。 この 二人の戦いが相撲の起源 とされています。 【まとめ】 鹿島神宮:タケミカヅチ(建御雷) 勝者 諏訪大社:タケミナカタ(建御名方) 敗者 ◇                    ◆                    ◇ 中臣鎌足(なかとみのかまたり=藤原鎌足 、614-669))は 鹿島生まれです。 中臣鎌足は、 天智天皇に協力し、645年大化の改新 を実現しました。 平城京に 春日大社が作られると、鹿島の神を 迎えました。 「鹿島立ち(かしまだち)」とは、 奈良時代この地から九州の防備におもむいた防人(さきもり)が 道中の無事を祈ったことに由来します。 いまでは「旅立ち」をあらわします。 鹿島神宮の本殿と 諏訪大社の上社(かみしゃ)の守屋山の山頂とが同緯度です。 守屋山は、諏訪大社のご神体そのものです。 埼玉県下には諏訪神社が80 もあります。 秩父地域に多く 見られます。 諏訪地域からの治水工事 のために ...

日光も四神相応(しじんそうおう)の地

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平安京、江戸は、四神相応(しじんそうおう)の地です。 風水における好適地のことをいいます。 日光もそうです。 北に亀山が鎮座し、東に稲荷川が流れ、南はなだらかに開け大谷川(だいやがわ)があり、西には中禅寺道が通じています。 鬼門軸には、毘沙門天をまつる外山があります。 日光を開山した勝道上人をまつる開山堂もあります。 裏鬼門には大黒山があります。 天海僧正をまつる慈眼堂(じげんどう)もあります。 日光は風水学から見て最適の地にあります。 ※ 日光霧降高原にて。2014/04/30 /src ページ末 * http://www10.plala.or.jp/VAIO/aki/nikko_kirifuri.html

江戸城の裏鬼門に増上寺を配置

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増上寺は裏鬼門に配置 増上寺は、江戸を守るために日比谷から裏鬼門に移されました。 増上寺は、 徳川家の大事な菩提(ぼだい)寺 です。 菩提とは、死後の冥福(めいふく)のことで、菩提寺とは、先祖代々の墓という意味です。 徳川家は浄土宗で、増上寺は江戸の中で最も古い浄土宗の寺です。 川越・蓮馨寺(れんけいじ)出身の増上寺の法主(ほっす)・存応(ぞんのう)が、徳川家康と親交を深め、増上寺を徳川家の菩提寺にしました。 1616年死期の迫ったことを悟った家康は、天海ら3人を枕元に呼んで指示しました。 「わたしの遺体は駿河の久能山(くのうざん)にほおむり、 葬儀は増上寺 でおこない、…、1周期が過ぎてから日光に小堂を建ててまつりなさい」 1616年、家康が没すると、存応は増上寺で葬儀の導師を務めました。 ※1617年、天海は導師となり、徳川家康の遺骸を久能山から日光へ移送します。途中、一行1300人は川越の喜多院で4日間にわたり法要します。このため川越の仙波東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮とならび三大東照宮と称せられます。 ※天海が存応と論争をしたとの記録が残っています。 増上寺では、 6人の将軍がミイラのあぐらの姿勢で裏鬼門を守り続けていました。 2代秀忠、6代家宣、7家継、9代家重、12代家慶、14代家茂です。 1960年ごろこれらの墓は改葬されました。 家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の6人は寛永寺で、表鬼門を守っています。 家康と家光は、特別で、日光です。 増上寺

お地蔵さんって?  赤ちゃんをとむらうための仏

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お地蔵さんって?  赤ちゃん をとむらうための仏   川越の喜多院 齋霊殿 入り口の六地蔵(ろくじぞう) 川越の中院にも同様のがあります。 地蔵菩薩は親しみをこめて「お地蔵さん」とよばれます。 幼くして死んだ子供の守り神でもあるので、 子供がよろこぶお菓子が供えられます。 また、水子(みずこ、流産などした胎児)の供養でも信仰を集めています。 水子地蔵とは、 幼くして死んだ乳児や流産した 胎児をとむらうための仏 です。 赤のよだれかけ をします。 積み上げられた小石 幼い子供が親より先に世を去ると、 親を悲しませ親孝行もしてないことから、 三途の川を渡れず賽(さい)の河原で 鬼のいじめに あいます。 そこで石の塔婆(とうば)作りを永遠に続けることになります。      「ひとつ積んでは、母のため     ふたつ積んでは、父のため   …」 お地蔵さん は、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から 子供達を守ります。 お地蔵さんが村はずれや辻にまつられているのは、その地域を悪霊から守るためです。 お地蔵さんは、釈迦の入滅後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでの間、 衆生を救う菩薩です。 六地蔵は、六道のそれぞれを6種のお地蔵さんが救う ことを意味します。 六地蔵像は墓地の入口などにまつられます。 これから六道に旅立つ者を守るためです。 母に寄りすがるような水子(みずこ) お不動さん(成田山 川越別院)の水子地蔵 「地獄に仏」とは、お地蔵さんのこと です。 ほかの仏さんは、地獄には出張しません。 ---------- お地蔵さまを描いてみましょう  【動画】