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法然は浄土宗の開祖。2月29日没。80歳

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法然は浄土宗の開祖。2月29日没。80歳 http://namu2006.exblog.jp/9350971 1133年5月20日。岡山県~ 1212年2月29日没。80歳 ◇                    ◆                    ◇ 法然は、岡山県の武士の家に生まれました。 8歳の時、父が夜襲で殺されます。 仇討ちをいましめる父の遺言にしたがって、 比叡山で出家 します。 法然は、15歳から43歳まで 28年間、比叡山で 修行 します。 5千巻以上の一切経を5度 読みかえしました。 「 智恵の法然 」 とうわさされました。 ところで、奈良仏教は、 国家宗教で、 僧侶は国家公務員 でした。 僧侶の役目は、 国家、貴族だけを守ること でした。 裕福な貴族たちは、仏像をつくり、寺を建立しました。 貴族だけが 浄土に 行くことができました。 奈良時代の仏教は、貴族だけを守るためのもの でした。 42歳の時、浄土宗をひらき、 「ただただ、 ナムアミダブツ、 と申せばうたがいなく、往生するぞ」 「極楽往生できる」と説きました。 専修念仏(せんじゅねんぶつ)といいます。 法然は、 貴族でなくとも、往生できる としました。 ※ 往生(おうじょう) 極楽に 往 って、 生 きる 法然は、仏教を万人のものにしました。 わかりやすい教えは武士や庶民に広く受けいれられました。 【※】「南無 阿弥陀仏」 ナムとは「おすがりします」。阿弥陀仏とは、「浄土にいるホトケさま」のことです。 源平争乱の 保元 の乱 (ほうげんのらん。 1156年 )以降に 、 法然の教えは武家、庶民のあいだにおびただしい信者を 生み出します。 時代は、相次ぐ天変地異で歴史の大きな転換期でした。 しかし、延暦寺や奈良の興福寺などの 旧仏教側、 権力はこの民衆の宗教運動を嫌い、 法然、弟子の親鸞を島流しにします。 法然75歳の時です。 流罪地は土佐でした。 流罪5年ののち、 京都に戻りますが、 1212年になくなりました。 はじめて女性に布教したのは法然 です。 法然のあとに、他...

空海=弘法大師。密教を仏教の完成形にする。4月22日没

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空海=弘法大師。密教を仏教の完成形にする。4月22日没 空海  弘法大師 =  遍照金剛(へんじょうこんごう)=  真魚(まお) ・774年6月15日。香川県- 835年4月22日没。62歳。高野山 空海の仏教は、密教が中心 密教とは、     秘 密 の仏 教 のことです。 師伝の秘法です。 純粋の密教は、インド、中国でも滅び、 日本にだけ残っています。 密教では、釈迦よりも 架空の仏である 大日如来(だいにち にょらい) が上 です。 大日如来 空海は、唐の長安に2年留学しました。 【※】長安 【地図】 今の 陝西省の西安 【地図】  長安は国際都市で、     古代キリスト教の教会や     古代ペルシャのゾロアスター教の教会 もありました。 密教の「 護摩木(ごまぎ)」を火に燃やしながらの祈祷は、 ゾロアスター教(拝火教)から来た との説もあります。 【※】 護摩木(ごまぎ)、成田山川越別院    【画像】 奈良仏教の寺院は、強い権力を握って政治に関与していました。 例えば、女帝・称徳天皇は、 僧侶の道鏡を寵愛し、天皇にする ことまで考えていました。 仏教の力が強まることを恐れた朝廷は、 仏教を政治から遠ざける必要がありました。 桓武天皇(737- 806)が遣唐使を唐に派遣したのは、 新しい仏教と科学を 求めたからでした。 空海は、諸宗を包摂し、仏教の付けたりだった密教を、      仏教の完成形 に格上げしました。      タイの仏教と日本の仏教は、まるで違います。 タイの仏教は、古形を保つ、いわばキリスト教のカトリック教です。 タイでは仏像といえば釈迦だけです。 日本の仏教は、改変、改変で、プロテスタントのようです。 タイなどの上座部仏教から見ると、日本の大乗仏教は 拡大解釈しすぎです。 空海。全体知の巨人。真言宗の開祖  桑原政則 空海>五輪塔(ごりんのとう)  地→ 水→ 火→ 風→ 空 高野山。奥の院のページ 空海展   ...

日本の宗教は、戒律に無関係、人間中心。最澄

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日本では、神仏は人間の一種 「宗教とは戒律の山」、「宗教≒戒律」が海外の習いです。 たとえば、タイの仏教には、227条の戒律があります。 最澄は、804年唐にわたり、帰国後天台宗をおこしました。 しかし、戒律がいつの間にかなくなってしまいました。 日本では、宗教も人間中心で、人間の都合が大事なようです。 神さまも仏さまも人間のためにあります。 また、日本は外国のものは、日本的にしてしまいます。 *     *     * 一神教のキリスト教、イスラム教では、 神が世界をつくりました。 神が人間をつくりました。 神は人間を意のままに扱います。 神の命令、戒律は絶対命令です。 日本では、イスラム教を禁止しませんでした。 しかし、戒律だらけの宗教を日本人は受け入れません。 日本は、島国で異民族との大きな戦争がないので、一神教で強く団結する必要がなかったというおだやかな歴史であることも原因でしょう。 【cf.】 小室直樹  日本人のための宗教原論 タイでは227の戒律が。 桑原政則1972。 ワットパクナム パーシーチャルーン寺

すがすがしい毎日を過ごすために。川越氷川神社

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そっと、心で手をあわせる (川越氷川神社の「すがすがしい毎日を過ごすために」を一部改変。) あわただしい日々を過ごしていても 家庭の中に、そっと手を合わせる場所があれば こころにゆとりが生まれます。 朝、目がさめたとき、夕方、外出先から戻ったとき わずかな時間、心を静めて手を合わせてはいかがですか。 目に見えない力を信じる心の余裕は、 日々の暮らしを、 よりすがすがしく、 安定したものに変えてくれるはずです。

親鸞の浄土真宗はキリスト教に近い

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仏教は、解脱(げだつ)を目的としていました。 「解脱」とは、悩みから     解 きはなたれ、  脱 け出す ことです。 しかし、仏教がネパールからガンダーラ方面に入った時、     救済 という考えが入り込みました。   ガンダーラ  /  numberonetokyo.com ガンダーラにはアレクサンダー大王のヘレニズム(ギリシャ)文化が浸透していました。 「救済」 は中国で、浄土信仰になりました。 浄土信仰の「救済」には、長安に入っていたキリスト教の「救済(salvation)」要素も取り入れられました。 ・最澄 (767 - 822)は、唐から浄土関係の資料を比叡山に持ちかえりました。 ・ 法然 (1133-1212)は、浄土思想をもって比叡山を降り、浄土宗を開きました。 貴族のものであった仏教を万人向けのものにしました。 法然の浄土宗では「となえれば成仏」 と教えました。 ・法然の弟子・ 親鸞 (1173- 1263)は、浄土宗をさらに先鋭化し、浄土真宗を開きました。 親鸞は、法然の浄土往生をさらに高めて行く事に力を注ぎ、自らが開宗する意志は無かったと考えられます。 阿弥陀如来(≒唯一の神=キリスト的なもの)だけが、人間を救済することになりました。 親鸞の浄土真宗では「信ずれば成仏」 と教えています。 親鸞の浄土真宗の盛んなところでは、阿弥陀如来が絶対的な救い主です。 おがむのは、アミダサマだけです。 したがって、     怪力乱神、お化け、御霊信仰、迷信 は、勢いがありません。 日本で一番多い宗派は、親鸞の浄土真宗です。 「親鸞」とは、     インドの「世 親 (せしん)」と     中国の「曇 鸞 (どんらん、中国仏教の開祖)」 の浄土教の僧侶名を合わせたものです。 ユーラシア的、世界的です。 親鸞の思想、絶対平等主義は、キリスト教に近いといわれます。 紀元前500年の釈迦(シャカ、仏陀)がキリスト教に影響を与え、唐では景教となりました。 空海も、景教寺院を見ています。 日本仏教は諸宗教を包摂:仏教伝来ルート地図...

蓮馨寺案内

蓮馨寺案内   後北条から江戸までの歴史を物語る川越市民いこいの寺 NPO法人武蔵観研 会長  桑  原  政  則 (この下からリード) -----------------------------------   蓮馨寺(れんけいじ)は、24時間開放の川越市民いこいの寺で、界隈は川越の浅草とも称せられた。一方では、葵の紋所を許された格式ある檀林(僧侶養成大学)で、殿様も、旗、槍をたおし目礼してから門前を通った。本稿では、観光面にもスポットをあて、時計回りに、後北条から江戸までの歴史を物語る川越市民いこいの蓮馨寺めぐりをおこなう。 ------------------------(ここまでリード) 室町時代に創建   後北条(小田原北条)は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で上杉勢に勝利した。3年後の1549年に蓮馨寺が創建された。室町時代のことである(川越は江戸ばかりではない)。のちに後北条の川越城将・大道寺政繁が、蓮馨寺を現在地に移す。大道寺政繁の甥にあたる感誉存貞が開山。のちに存貞は大本山・増上寺法主(ほっす)に栄達。 壇林(だんりん=僧侶の大学)  【pic】   浄土宗壇林・蓮馨寺は、江戸期には関東十八檀林の一つで、幕府公認の僧侶養成機関として多くの学僧を育てる。壇林では3年1期、9期27年学ぶ。葵の紋所を許された格式ある寺で、殿様も、旗や槍をたおし目礼してから門前を通ったという。 インド門   蓮馨寺講堂の門。インド・サーンチー遺跡の記念の門を模したもので、聖なる場所への入り口を表わす。講堂は多目的ホール。 水舎(みずや)   1893年(明治26年)の川越大火で鐘つき堂と共に火災を免れる。水鉢の龍頭の彫り物。鶴亀、牡丹唐獅子、唐子(からこ)遊びの図など。 将監地蔵尊(しょうげんじぞうそん)   松平信綱の重臣、遊佐将監(ゆさ しょうげん)作の地蔵。奇跡を起こすとして信仰される。 蓮馨大姉の供養碑  墓域   【pic】   大道寺政繁の母・蓮馨大姉の供養碑が。蓮馨とは、(阿弥陀仏のいる極楽浄土の)蓮の香りのこと。蓮馨大姉が上尾市に蓮馨寺を建立し、...

鎌倉時代に、法然、親鸞が仏教を万人に開放

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法然。増上寺。2011 平安時代には仏教は国家のためのもの、貴族のためのものでした。 貴族だけが浄土に行くことができました。 庶民には縁遠いものでした。 鎌倉時代になり、法然は、万人向けの浄土宗を開き、 「誰でも南無阿弥陀仏をとなえれば、極楽往生できる」 と教えました。 浄土真宗の 親鸞も法然の弟子 です。 法然は「となえれば成仏」、 親鸞は「信じれば成仏」 と説きました。 法然、親鸞は、仏教をみんなに開放しました。 ◇                    ◆                    ◇ 法然は8つの大師号を天皇から送られています。 このような例は他にありません。7 最新のものは、「和順」です。 昭和天皇から贈られました。 蓮馨寺の「和順会館」は、法然の大師号にちなんだものです。 法然は仏教を万人のものに 蓮馨寺物語  目次 蓮馨寺は、浄土宗です。 「浄土宗 檀林 蓮馨寺」が通称です。

川越市の神社

川越市の神社 県社 三芳野神社 氷川神社 古尾谷八幡神社 仙波日枝神社 由緒神社 仙波東照宮  国重要文化財

タイでは宗教観光も

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(2013/05) 南タイのプーケット  (※) 北タイのチェンマイから2時間飛ぶと、南タイのプーケットです。 プーケットは国際空港も擁す、国際観光地です。 今年はタイに中国人観光客が600万訪問中とのことです。 ◇                    ◆                    ◇ イスラム色が強い南タイ (※) 南タイは、ネコが多く、イヌがいないイスラム色の強いところです。 プーケットも3割以上がムスリム(イスラム教徒)です。 タイでは宗教は生活です。 生活の中で戒律を守ることが宗教であって、本ではありません。 上座部仏教 中国教(チャイニズム=儒教+道教) イスラム教 ヒンドゥー教(インド教)  が併存しています。 併存とは、我関せずの知らんぷり、のことです。 おとなのつきあい、です。 タイでは、各宗教の寺院や代表的な村をめぐる宗教観光も、 魅力の一つです。 ◇                    ◆                    ◇ オトナのアセアンは、排除ではなく、包含が得意です。 独裁国家のミャンマーを古くから正式メンバーとして扱い、 民主化に導いています。 アセアンの特色は、 非軍事的 非核 自由貿易 民主主義 です。 日本はアセアン、大洋州などの海グループとの連携が大事です。 白村江以来、大陸文明国家(陸グループ)との付き合いでは、 いい思いをしたことはありません。 (※)プーケットは、マレーシア語のbukit(ブキット、丘)に由来するとも言われています。 (※)ヒンドゥー(Hindo)とは、インドのことです。 【追】 実はイギリスの産業革命を準備したのは、東南アジアです。 (※)http://b...

知鑑。蓮馨寺住職から知恩院の法主に。Chikan。3月6日没

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  知鑑。蓮馨寺住職から知恩院の法主に。Chikan。3月6日没  2番が 法然聖人御堂  (※)知恩院 ・1606年~ 1678年3月6日 知鑑(ちかん。1606- 1678)は、蓮馨寺第9代目で、のちに京都の知恩院の法主(ほっす)にまで昇りつめました。 知鑑が修理のために蓮馨寺から持ち込んだ 阿弥陀三尊 (『往生要集』の恵心(えしん)作。985年)は、いまも知恩院の千畳敷といわれる 法然上人御堂 に鎮座しています。 『往生要集』の阿鼻地獄 (※) 北野天満宮

法然コラム

法然は浄土宗の開祖で親鸞の師匠 法然は仏教を万人のものに 危難の年に法然、親鸞 日本も宗教戦争の時代が  法然、浄土宗、増上寺、蓮馨寺 日本の宗教改革は鎌倉時代に、法然が 法然上人に8つ目の大師号(だいしごう) 蓮馨寺ものがたり   粂原恒久住職 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 桑原政則のコラム  Twitter(桑原政則のフェイスブック履歴)

「火が強かった」は、「しがつようかだ=4月8日だ」で、 お釈迦様の誕生日に。

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火が強かった→4月8日だ:お釈迦さまの誕生日  (※) 江戸弁では  「ひ」が「し」になまります。 わたし(桑原政則)の母は、 よく「日比谷」<母は「しびや」>と「渋谷」をまちが得ていました。  「おシャカになる」とは、鍛冶屋さんが製品をつくりそこなった時に使いました。  鍛冶屋さんは焼き物をつくるとき、火が強すぎると なまくら になり、失敗作になりました。  「火が強かった」は、「しがつようかだ=4月8日だ」となり、お釈迦様の誕生日になります。  それで「おシャカになる」としゃれたようです。 民間語源説です。  ともあれ、 「4月8日だ」は、  「火が強かった」で、  お釈迦様の誕生日 です。

日本の宗教改革は鎌倉時代に、法然が

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鎌倉時代に、仏教は、庶民のものへ 運慶作。剛健な金剛力士像  / wp 日本の国民史は、鎌倉時代からはじまります。 奈良、平安時代は、一種の奴隷制の時代で、     国家は、 公家、寺院のため にありました。 庶民には、転職、移住の自由はなく、働く機械でした。 仏教は、     国家仏教で、     僧侶は官僧 (=国家公務員) でした。 僧侶の仕事は、庶民とは関係なく、国家の安泰を祈ることでした。 仏教は、     「 鎮護国家 」     「 朝家(ちょうけ)安泰 」 のためのものでした。 お経もお寺も極楽も、庶民とは無関係 でした。 平安時代までは庶民の生活は、見えません。 武士や庶民を描いた小説はありません。 『源氏物語』は、宮廷の物語で、庶民が何をしているかはうかがえません。 ◇                    ◆                    ◇ 平安の中期頃に 鉄器がもたらされ、農具の生産 が高まりました。 かつては、山間や谷間のような水の流れる傾斜地でのみ行われていた水田工作が、 関東の平地、平らな場所でも、開墾すれば、可能になりました。 日本一広い関東平野を開墾し、 開拓農民から開墾地主に なるものがあらわれました。 武士の誕生です。 しかし、奴隷制の律令体制下では、耕しても自分の土地にはなりません。 しかたなく、自分の土地を中央の貴族、寺社に寄付し、管理権だけをもらっていました。 京で口利き役 になってくれたのが、     源(みなもと) と     平(たいら) でした。 源氏も平氏も、もとは天皇の血筋でした。 敵同士の源氏と平氏は、戦いました。 平清盛が源義朝を破り 、 平氏は一大勢力となります。 勝った平氏は、 のちに公家の仲間入りをしてしまいます。 伊...

佐々井秀嶺:インド新仏教運動の中心人物

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佐々井秀嶺  :wp 新仏教の創始者・アンベードカルがまいた種は、半世紀後の今日インドでは1億人の信者を擁するまでになりました。 いまこの新仏教運動は Shurei Sasai(佐々井秀嶺、アーリア・ナーガルジュナ Arya Nagarjuna、1935年- )によってひきつがれています。 佐々井秀嶺は、インド仏教復興運動の中心人物です。 ◇                    ◆                    ◇ (※)アーリヤ・ナーガールジュナ 「アーリヤ・ナーガールジュナ」(聖なる龍樹)の尊名は、ラジブ・ガンジー首相から贈られたものです。 佐々井秀嶺  【5:41】 佐々井秀嶺師に問う 山際素男、インドの下層階級の新しい動向

新仏教の創始者アンベードカル

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アンベードカル インドでは仏教は、いったん亡びました。 …。 しかし、今では、1億人の信者がいます。 インド人の10人にひとりが仏教信者となっています。 ヒンドゥー教は、カースト制度により人を差別します。 これに対して、ブッダは、血統、階級、民族にとらわれない普遍主義を主張しました。 これが都市部の新興の商工業者層に取り入れられました。 しかし、時代が下るにつれて、仏教もどんどんヒンドゥー教の影響を受けるようになりました。 そこに、強固なイスラム教が入ってきたため、ヒンドゥー化した仏教は、衰退の一途をたどりました。 最下層の不可触民として生まれたアンベードカル( Ambedkar、1891-1956) は、激しい差別に耐え、藩王からの奨学金を得て、米英に留学もしました。 不可触民のためには何もしないガンディーと対立しました。 ネルー内閣では、法務大臣をつとめ、憲法の起草にもつくしました。 弁護士として出発しましたが、同時に社会運動家、政治家、ジャーナリスト、教育者などの多彩な活動をとおして、反カースト、不可触民の地位向上に献身しました。 1956年、アンベードカルは30-50万人の不可触民とともに仏教に集団改宗し、新仏教運動をはじめました。 アンベードカルは、カースト制度をささえる業(ごう)の思想、輪廻(りんね)の思想を否定し、これこそがブッダの思想の核心だとしました。 しかし、これを、仏教界は異端の思想としました。 アンベードカルが死の直前にまいた種は、半世紀後の今日1億人の信者を擁するまでになりました。 いまこの新仏教運動は日本人の Shurei Sasai(佐々井秀嶺、しゅうれい)によってひきつがれています。 アンベードカル 【画像と物語】

蓮馨寺の後北条、徳川家群像 ー 大道寺政繁、蓮馨尼、感誉存貞、源誉存応、呑龍、知鑑

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蓮馨寺の後北条、徳川家群像    ー 大道寺政繁、蓮馨尼、 感誉存貞、 源誉存応、 呑龍、知鑑 ー  ----------------------------------- 本稿は、桑原政則「蓮馨寺の後北条6偉人」『川越の文化財』第113号(2013年)を、加筆、編集したもので、文体は「である」調です。 2019年1月 ----------------------------------- (3000字  音読15分に、勉強会 2013/02/12 蓮馨寺客殿)   蓮馨寺(れんけいじ)は、徳川幕府公認の格式の高い檀林(僧侶養成大学)であり、寺領20石を拝領した御朱印寺であった。 江戸ばかりでなく、 後北条の要素も多く残す 川越では希少な寺である。 本稿では、後北条つながりの人物を中心に紹介する。 実証を待つものを含む。 ------------------------ 後北条の三つ鱗と葵の御紋。 蓮馨寺正面の祈願所 大道寺政繁。女浮世絵師画。 安中市学習の森にて。 2012/12 x 1) 大道寺政繁   後北条は、小田原北条、戦国北条ともいわれる。1491年- 1590年の100年にわたり、戦国大名として君臨する。 初代・北条早雲、2代・氏綱、3代・氏康、4代・氏政、5代・氏直と続く。   大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣 である。 出自は山城国(京都府)綴喜郡(つづきぐん)大道寺村とされる。 政繁の祖父、父は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で、上杉勢を敗北させる。 これにより太田道灌の築城より90年続いた上杉氏の河越城支配は終わりを告げる。  <*  (挿入)上杉の川越支配の歴史> 大道寺氏は以来 1590年まで3代40年間にわたり河越地域を支配 する。   大道寺駿河守政繁(だいどうじ するがのかみ まさしげ、1533- 1590、57歳没)は、祖父、父を継いで河越城の城代(城主の代理)となる。 坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎を築きました。 1582年(天正10)の本能寺の...

源誉存応。徳川家を増上寺の檀家にする。11月25日没<蓮馨寺

源誉存応。徳川家を増上寺の檀家にする。11月25日没<蓮馨寺  ・1544年2月2日~ 1620年11月25日没。 存応(ぞんのう、源誉存応、1544-1620)は、鎌倉時代の存貞の弟子です。 源誉存応は感誉存貞に従い、鎌倉から蓮馨寺に移り修行します。     (感誉存貞は、蓮馨寺初代で、増上寺第10世です。) 後に大本山・増上寺の第12代目法主(ほっす)になります。 1590年、徳川家康が入府すると、源誉存応は親交を深め、 徳川家を増上寺の檀家にしました 。 源誉存応は芝の大本山・増上寺中興の祖といわれます。 1610年、源誉存応は徳川家の推薦で、朝廷より 「 観智国師」という称号を 受けます。 国師は国中でただ一人のみに授けられます。 大学者であった 源誉存応が、喜多院の天海と論争 をしたとの記録が残っています。 天海も学識深く、家康の宗教顧問でした。 1616年、家康が没すると、源誉存応は 増上寺で葬儀の導師 を務めました。 源誉存応は、壇林の制度を整えました。壇林は僧侶養成大学です。   関東には18檀林あり、蓮馨寺もその一角を 占めています。 存応の弟子に 呑龍(どんりゅう) がいます。 (毎月8日は蓮馨寺で、 呑龍デー がひらかれます。) 源誉存応の 増上寺に徳川6将軍 が、 天海の 寛永寺に6将軍 が埋葬されています。 ともに 川越の高僧が かかわっています 。 源誉存応の長伝寺  2010年4月

蓮馨寺の感誉存貞。大本山・増上寺第10世に。秀吉への手紙で川越を火災から守る。6月7日没

蓮馨寺の 感誉 存貞。大本山・増上寺第10世に。秀吉への手紙で川越を火災から守る。 6月7日没 ・ 1522年~ 1574年6月7日没 感誉存貞(かんよぞんてい、1521-1574 )は、小田原の人で後北条氏の大道寺氏の出身です。 河越城将・大道寺政繁の甥です。 <※ 大道寺政繁は、北条氏康によって河越城将となりました。 > <※    「 河 越」は江戸時代から「 川 越」となります。> 感誉存貞は、河越城将・大道寺政繁に招かれ、蓮馨寺(れんけいじ)を開き、蓮馨寺初代住職となりました。 5年後、 浄土宗の大本山である増上寺第10世 におさまりました。 <*  京都の知恩院は浄土宗の 総本山 、東京の増上寺は 大本山 です。> 150名の弟子を擁したといわれています。 弟子の存応は、増上寺の第12世となりました。 存貞の浄土宗伝法は、 感誉流伝法 と言って、現在も伝承され続けています。 伝法(でんぽう)とは、僧侶になるための仏法の形式、内容のことです。 浄土宗の寺院は全国に7000以上あります。 本山で修行のあと、感誉流伝法を授与されて正式の僧侶になります。 かつては 9部門を、1部門3年、計27年 かけて学ぶものでした。 存貞は4年で増上寺から蓮馨寺に戻ります。 1582年、秀吉軍が河越をおそおうとした時、感誉存貞が豊臣秀吉に手紙をしたためました。 その結果、 秀吉から「河越では今後いっさい、火付盗賊、戦乱はまかりならぬ」との朱印状 が届き、蓮馨寺に残っています。 感誉存貞は、河越を火災から守りました。 川越の 見立寺 (けんりゅうじ)、 大蓮寺 も感誉存貞が開山しました。

天海僧正のキャッチフレーズ

天海僧正についてのキャッチコピー、風説をあげます。 徳川家康の知恵袋  徳川家康の信頼あつかった宗教顧問 家康に重用された天海 徳川3代の相談役 2代秀忠、3代家光の相談役 人中の仏(徳川家康の言) 黒衣の宰相  → 金地院崇伝との混同か 妖怪僧侶  → 金地院崇伝との混同か

空海:五輪塔(ごりんのとう) 地→ 水→ 火→ 風→ 空

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高野山の奥の院のガイドマップ にも五輪塔の説明が。  2013年9月 地は黄、水は白、火は赤、風は黒、空は全色 五輪塔:地→ 水→ 火→ 風→ 空 五輪塔(ごりんとう)は、空海(774ー 835)が始めたようです。 インドや中国には残っていません。 宇宙は5元素、 「 ちすいかふうくう :地→水→火→風→空 よりなります。 色であらわしたのが、五色幕です。 五色幕   川越、喜多院