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伊達政宗。関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、仙台藩62万石を領す。(【※】伊達政宗から天海僧正への手紙)

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伊達政宗。関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、仙台藩62万石を領す。(【※】伊達政宗から天海僧正への手紙) 伊達政宗 ・1567年9月5日- 1636年6月27日   満68歳 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 伊達政宗から天海僧正への手紙 伊達政宗から 天海僧正への手紙  (2011年7月会津美里町の 龍興寺にて) 伊達政宗が天海僧正にあてた手紙が、 会津美里町の龍興寺に残っています。 伊達政宗 「天海殿に面談したかったのですが、 先客があるとのこと。 またお疲れのようですから、今回は帰ります。」(要旨)  伊達政宗は 天海の属する葦名一族を滅ぼしました。 1589年のことです。 摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)  天海にとっては伊達政宗は敵です。 しかし、政宗の直筆の書状からは、 恩讐を超えた間柄であったことがうかがえます。 天海僧正は、伊達政宗の31歳上です。 <* 龍興寺は、2回の火災にもかかわらず、貴重文書を残しています。 常に枕元に置いておくようです。古いものは残したいものです。 断捨離の前に、せめてデジカメで保存を。> 天海僧正が出家した龍興寺 *     *     * 天海物語 目次

江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係

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江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4 江戸を守る川越関連の人物、寺社 江戸城は、5寺社によって守られていました。 <天海と川越>が関係しています。 「川越は江戸の母」 とよばれるのは、このためです。 5寺社は、鬼門(北東)と裏鬼門(南西)に位置し、 江戸城を守っています。 ※ 「鬼門」は当時は迷信ではなく、科学でした。 寛永寺は、徳川幕府が建立し、 川越・喜多院住職であった天海僧正が開山 した寺院です。 山号は東叡山(とうえいざん)です。 「東の比叡山」を意味します。 比叡山延暦寺は「 延暦 」年間に創建されました。 東叡山寛永寺は「 寛永 」年間に創建されました。 寛永寺  浅草寺(せんそうじ)は、 江戸で最古の天台宗のお寺 です。 1590年、徳川家康は江戸に入府しました。 天海の進言があり、 浅草寺は祈願所に定められ、あつい庇護を受けました。 浅草寺 神田明神は、天海僧正が大手町から、 鬼門を守る今の位置に移したものです。 神田明神 赤坂山王 日枝神社は、 川越・日枝神社から太田道灌が分霊 したものです。 日枝神社(ひえ じんじゃ) 1590年徳川家康は 増上寺を菩提寺(ぼだいじ、先祖の墓のある寺)にしました。 増上寺は、 ひところは3000人以上の学僧が学んでいました。 川越・蓮馨寺(れんけいじ)出身の法主(ほっす)・存応(ぞんのう) が すすめたものです。 存応は、増上寺中興の祖といわれます。 増上寺  ※ 郷土教育が青少年から疎遠になりつつあります。 若い人には、自分の郷土に自信をもち、 しっかり下から豊かな歴史ある国をつくってほしいものです。 日本は、歴史、郷土史がおもしろい国です。

天海僧正の健康法。勤行(ごんぎょう)、歩く、粗食、学習

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天海僧正の健康法。勤行(ごんぎょう)、歩く、粗食、学習     *  徳川家康の知恵袋・天海僧正は、会津の武士の生まれです。 生まれつき頑健で、身長も180センチ以上あったようです。 108歳まで生きました。 【※】川越 喜多院の天海僧正は、 徳川家康、2代 秀忠、3代 家光  の  徳川三代に仕え、 政治や宗教で大きな影響を与えました。 天海肖像画。会津美里町公民館前 毎日、実行していたことがあります。 勤行(ごんぎょう)、 歩く、 粗食、 学習 です。 ・朝夕、大声での勤行(ごんぎょう):     大声での発声が健康の元でした。 ・歩く:      天海は健脚でした。     日本中を徒歩で巡っています。 天海僧正の足跡地図 ・粗食:      少食粗食が当たり前でした。 ・学習:     毎日の学習で脳を活性化します。     50歳近くまで留学僧として学びの旅を続けます。    その後も108歳まで学習を続行します。 徳川家康に贈ったことばがあります。 「気は長く      勤めはかたく   色うすく  食ほそうして   心ひろかれ」   (気は長くもって、しっかり働きましょう。 色(欲望)は低く抑えましょう。 少食を旨としましょう。 心は広くもちましょう。) * http://goo.gl/90cq9

天海。徳川家康を神にし、260年のパクス・トクガワーナを築く。108歳で没。Tenkai。10月2日没。 #徳川家康 #3代 徳川家光 #川越の喜多院 #寛永寺 #日光

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天海。徳川家康を神にし、260年のパクス・トクガワーナを築く。108歳で没。Tenkai。10月2日没    #徳川家康 #3代 徳川家光  #川越の喜多院  #寛永寺  #日光            天海僧正。会津美里町公民館にて ・1536年。福島県会津美里町高田 ~ 1643年10月2日没。108歳(数え年) 天台宗の天海僧正は、1643年(寛永20年)10月2日に寛永寺にて逝去(せいきょ)しました。 【※】寛永寺 「寛永」とは、天海僧正の寛永寺にちなんだ年号です。 幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、 江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、 寛永寺を 天海が建立しました。 生年は1536年で、107歳の長寿で没しました。 福島県の 会津美里町高田 【地図】の生まれです。 天海は、 1610年(慶長15年)75歳のとき、 徳川家康に駿府城で会いました。 この時、家康は68歳でした。 天海75歳で家康68歳と対面 しました。 ご両人とも、当時では考えられないくらいの長命でした。 天海僧正は、徳川家康に1616年まで7年間仕えました。 天海僧正を徳川家康は川越の喜多院に6回訪れています。 天海は、家康の次に、秀忠、家光の2将軍の相談役として27年間 仕えました。 比叡山 中興の祖でもあります。 天海版と呼ばれる日本最初の『大蔵経』を 寛永寺で木活字で刊行しました。 6323巻からなります。 天海は、徳川家康を東照大権現(とうしょう だいごんげん)という神に まつりあげました。 「権(ごん)」とは、「仮」のことです。 「権現」とは、仏が仮に神の姿で現れること です。  東を照らす神様となって民をまもるのが徳川家康です。 パクス・トクガワーナの260年の長期政権の元を築きました。 天海は、死後「慈眼大師(じげんだいし)」の号を朝廷から賜わっています。 「慈眼」とは、いつくしみのこもった(ほとけの)眼のことです。 天台宗では、これ以降、天皇から「大師」の号は出ていません。 ・・・・・・・・・・・ 【 パクス 】 パクス・ロマーナ (Pax Romana。ローマによる平和)は...

公開講座 天海僧正談義 【※】詳細編

公開講座 天海僧正談義 【※】詳細編 2015年7月31日(金) 10時~12時 桑原政則・一村義夫 場所:川越 もっこ館 古民家カフェー2階 参加費:資料代 200円と珈琲代 350円をご用意ください。 事務局:049-224-8967 または musashikankenATgmail.com まで「7/31 希望」と。 【※】ATを@に変更 地図: 〒350-0824 川越市石原町1丁目18 もっこ館 高沢橋近く 地図 「一緒に考えましょう」 1 天海僧正は、空海とおなじく特別の人?どんなところが? 【参考:順不同】 勉強一筋の天才 武の時代に平和を  ◎  天海僧正の足跡地図 桓武天応が最澄、空海を唐へ派遣したのはなぜ? 前半生:◎  天海僧正略年表 天海、会津でうまれ11歳で僧侶に 天海僧正とは? 天海僧正は、なぜ評判よかった? ◎  比叡山中興の祖・天海。論湿寒貧の延暦寺生活   *家康が観察。 天海僧正のキャッチフレーズ 天海僧正の異名 天海、慈眼大師に 10月2日は日光で長講会(じょうごえ) 天海僧正キーワード 天海年表 2 108歳まで生きた天海僧正の健康法は? 【参考】 ウォーキング、勤行  ◎  天海僧正の養生訓。健康法 気は長く 天海僧正滞在・訪問箇所 3 土地が栄え、人間がしあわせになる四神相応(しじんそうおう)の地って? 【参考】 *江戸の四神相応と天海のかかわり  京は四神相応の地 江戸は四神相応の地形  日光も四神相応の地  : 日光の年表 川越は四神相応の地。上戸・的場地域→ 川越城地域 4 江戸城の鬼門を封じる5寺社って?川越にも関係? 【参考】 ◎  江戸城を守る5寺社   東北:寛永寺。浅草寺。神田神社。  西南:増上寺。日枝神社。 5寺社が江戸城を守る 天海が平将門の霊を神田神社に移す 5 パクス・トクガワーナ260年の意義は? 【参考】 天海僧正は何をした偉い人?  徳川家康を東照大権現(とうしょうだ...

公開講座 天海僧正談義

公開講座  天海僧正談義   2015年7月31日(金)  10時~12時   桑原政則・一村義夫 場所:川越 もっこ館  古民家カフェー2階 参加費:資料代 200円と珈琲代 350円を ご用意ください。 事務局:049-224-8967   または    musashikankenATgmail.com まで「7/31 希望」と。 【※】ATを @に変更 地図: 〒350-0824 川越市石原町1丁目18 もっこ館  高沢橋近く             地図 天海僧正は、空海とおなじく特別の人?どんなところが? 108歳まで生きた天海僧正の健康法は? 土地が栄え、人間がしあわせになる四神相応(しじんそうおう)の地って? 江戸城の鬼門を封じる5寺社って?川越にも関係? パクス・トクガワーナ260年の意義は? 徳川家康の何が偉大? 徳川家光は川越の恩人? 「川越は江戸の母」って、どういうこと? 喜多院に見るなんでもあり宗教の例は? 仙波東照宮の再生策は?(川越の観光振興の一面から) その他。(フロアーより) 【※】 詳細編

神田祭、遷座400年に熱気 「セイヤ、セイヤ」威勢良く

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神田祭、遷座400年に熱気 「セイヤ、セイヤ」威勢良く  Nikkei、2015/5/10を引用編集 氏子や見物客で境内が埋め尽くされた神田祭の「神輿宮入」  江戸三大祭りの一つ、神田明神(東京・千代田)の神田祭が最高潮を迎える「神輿宮入(みこしみやいり)」が10日、行われた。  今年は 大手町にあった神田明神が外神田に移ってから400年の節目 。 「セイヤ、セイヤ」の威勢の良い掛け声とともに、氏子らが約100基の神輿を次々と境内に担ぎ入れ、「 遷座(せんざ)400年 」を祝った。  この日は7月上旬並みの最高気温27度。真夏を思わせる日差しのなか、境内や周辺の道路は見物客で埋め尽くされた。母親と2人で来た千葉市の女性会社員(31)は「おはやしを聞くとわくわくする。 ※ 遷座(せんざ)400年 天海僧正が、大手町から神田神社に 平将門(たいらのまさかど)の霊を移し、 江戸の町の総鎮守にしました。 天海が平将門の霊を神田神社に移す

天海=明智光秀説

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東照宮の桔梗紋  /src ページ末 日光東照宮陽明門にある随身像の袴にも桔梗紋  /src ページ末 桔梗紋  /src ページ末 /src ページ末* 明智平  /src ページ末* 明智光秀像  /src wp 明智光秀(1528- 1582)は、1582年本能寺の変で、織田信長を自害に追い込みました。 同年の山崎の戦いでは、豊臣秀吉にやぶれました。 明智光秀は、逃れて天海(1536- 1643)になったという説があります。 ・東照宮には桔梗の彫り細工が多数見られます。   桔梗紋は明智家の家紋です。 ・日光の明智平(あけちだいら)は、天海が名付けたという伝承があります。 ・比叡山に明智光秀の名で寄進された石碑が残っています。寄進は明智光秀死後のことです。 ・春日局(徳川家光の乳母)は、 明智光秀の家老・斎藤利三(としみつ)の娘です。 ・2代徳川< 秀> 忠と3代徳川家< 光> の名に、「光秀」が隠されています。 (4月1日記) 【追記】 1556年明智一族は、斉藤道三・義龍父子の争いで、明智城を攻められ一族が離散しました。 娘には、細川忠興の妻・細川ガラシャがいます。 亀岡市、福知山市など領国で善政をおこない、まつられています。 * http://blog.livedoor.jp/akechi_mitsuhide/archives/50144092.html http://ameblo.jp/autoparts-hirotec/entry-10597744233.html http://www.nikko-kotsu.co.jp/ropeway.html

彰義隊とは

鳥羽・伏見の戦いで徳川軍は敗れました。 慶喜(よしのぶ)は大阪から軍艦に乗って、江戸にもどります。 勝海舟に「あとは頼む」と言ったきり、ここ寛永寺で謹慎しました。 彰義隊が寛永寺を守ろうとします。 彰義隊とは、「床几(しょうぎ、腰掛け)」に由来します。 将軍家をささえる組織という意味です。 1868年の上野戦争で、彰義隊は寛永寺に立てこもり、最後の反抗を試みました。 彰義隊は、「天海万歳!」とさけびながら、薩長に襲いかかっていきました。 天海の軍隊は、最後まで徳川を守ろうとしました。 しかし1日で壊滅しました。 薩長側は徳川家の守り本尊である寛永寺を焼き尽くしました。  彰義隊

喜多院の天海僧正は、ビートたけしを彷彿させる

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喜多院の天海僧正の頭部 喜多院の天海僧正 喜多院の天海僧正は、ビートたけしを彷彿(ほうふつ)させるとの声がありました。 (松岡章次 「小仙波風土記」2014/02/9。 川越市・小仙波自治会集会所にて) 【追加】 2014/7/22Tu 1800 第2回 川越みがきのつどい

天海僧正の異名

徳川家康の側近 将軍の相談役 黒衣の宰相     【※】「金地院崇伝」のこと 徳川幕府の精神的支柱 御意見番 ・・・・・・・・・・・ 南光坊天海 慈眼大師

天海僧正略年表

1536年 誕生 福島県会津美里町で誕生 11歳で出家してからは、勤行一筋 家康より6歳年上 <※語呂合わせ: 人ごみ無 視し、天海勤行> 1560年-   24歳- 足利学校で4年間学ぶ 1590年 55歳、喜多院へ 1607年 72歳 比叡山探題に  家康の命で、この年から5年間、比叡山探題奉行に 論湿寒貧の延暦寺生活 1613年 78歳、日光山の貫首(かんじゅ)に  貫首は大寺の住職 1616年 徳川家康74歳で没。 天海 81歳。家康の夢は、地上天国の実現 1625年 寛永寺建立 天海 90歳 1643年 天海没 天海 108歳  <※語呂合わせ: 火、無視さ 、と天海寂滅>

天海僧正を学ぶと…

川越に興味を覚えるようになります。 京、比叡山がおもしろくなります。 江戸時代がおもしろくなります。 日本史がおもしろくなる 人物に親しみが湧いてきます。 最澄、太田道灌、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光 地理が身近になります。 会津、日光、東京、川越、駿河(静岡)、京都、滋賀 風水、鬼門にひかれるようになります。 神仏が身近になります。

天海僧正キーワード

天海僧正キーワード 【あいうえお順】 会津美里町:誕生 江戸城 延暦寺 春日局 寛永寺:   神田神社 喜多院。仙波東照宮:川越 久能山 四神相応(しじんそうおう) 慈眼大師 大黒:シヴァ神、大国主 武田信玄 天台宗:神仏教。幕の内弁当。鎮護国家 東照宮 東照大権現:山王一実神道(さんのう いちじつ しんとう) 徳川家光 徳川家康 徳川秀忠 比叡山 養生訓:「気は長く 勤めは堅く 色薄く 食細くして 心ひろかれ」 。 論湿寒貧(ろんしつ かんぴん): 比叡山での修行生活 龍脈(りゅうみゃく): 北極星- 日光- 川越- 江戸。 日光-  富士山- 久能山。 久能山- 岡崎- 日吉大社

天海。徳川家康の知恵袋。パクス・トクガワーナ(徳川の平和)260年を築く。11月13日没 

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天海。徳川家康の知恵袋。パクス・トクガワーナ(徳川の平和)260年を築く。     川越 喜多院の天海僧正像 川越の喜多院    1612年、喜多院、関東天台宗の本山に 天海:   1536? - 1643/11/13。108歳  天海は、徳川家康を 東照大権現(とうしょう だいごんげん)という神にし、 260年の泰平の世 を築きます。 ※権現(ごんげん)とは   権現とは、「 仮に(= 権 )、この世に 現れている 神」のことです。 天海は、 伊勢神宮の天照大神(あまてらす おおみかみ)を念頭に、 徳川家康が   東国の天照(あまてらす=東照)となる ことにし、 「東照大権現」 にします。 東照大権現とは、     家康が東照の神となって     仮に(=権)この世にあらわれている姿 です。 パクス・トクガワーナ(Pax Tokugawana、ラテン語)260年 の 長期政権の元を築きます。 パクス・トクガワーナは ローマ帝国の平和(Pax Romana パクス・ロマーナ)にちなみます。 200年続きました。 前27年から180年までです。 天海は           2代 秀忠、           3代 家光の 家庭教師役、宗教顧問 も27年間つとめました。 天海は75歳で、家康68歳と対面 しました。 ご両人とも、当時では考えられないくらいの長命でした。 天海は、徳川家康に1616年まで7年間仕えました。 天海を徳川家康は 川越の喜多院に6回訪れています。 天海は、短気で好色な3代家光に 長寿の秘訣を教えました。    <  気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ  > * 天海僧正は、 会津の武士の生まれ です。 生まれつき頑健で、身長も180センチ以上あったようです。 108歳まで生きました。 毎日、実行していたことがあります。 「勤行(ごんぎょう)、歩く、粗食、学習」 です。      ・朝夕、大声での勤...

天海僧正コラム

天海僧正とは 天海僧正略年表 天海僧正の養生訓  【養生訓】 論湿寒貧の延暦寺生活  【延暦寺】 喜多院をあるけば天台宗がわかる。神仏教(かみほとけきょう)  【喜多院】 「家康=北極星」により東照宮信仰を確立  【北極星】 北斗七星は天帝(北極星)の乗り物  【北極星、北斗七星】 卍(まんじ)とは、北斗七星のこと  【北極星、北斗七星】 北斗七星の配置上にある日光の寺社  【北斗七星】 京都の鬼門。日吉大社。比叡山延暦寺。下鴨神社。猿が辻  【鬼門】【比叡山】 比叡山は、「トワー(いち) ハハ目(め)」   【鬼門】【比叡山】 最澄の比叡山延暦寺は日本仏教の母山  【比叡山】 京都御所の角欠け(かくかけ)とは。猿が辻  【鬼門】【京都】 桓武天皇の命で坂上田村麻呂は京の鬼門封じに津軽に北斗七星を配置  【北斗七星】【桓武天皇】【鬼門】 桓武天皇は、なぜ平城京、長岡京を捨て、平安京を造営?  【桓武天皇】 「天皇」とは北極星のこと。左が格上の理由  【北極星】【天皇】 川越は、日光からの気のエネルギー中継センター   【川越】【日光】 日光- 富士山- 久能山の龍脈  【龍脈】【日光】【富士山】【久能山】 なぜ久能山の東は海?  【久能山】 久能山、新城、岡崎、比叡山・日吉大社にも龍脈が  【久能山】【新城】【岡崎】【比叡山】【日吉大社】 京は四神相応(しじんそうおう)の地  【四神相応】  江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形  【四神相応】  日光も四神相応(しじんそうおう)の地  【四神相応】 江戸の町はうずまき型  【江戸】 寛永寺を江戸城の鬼門封じに  【江戸】【寛永寺】【鬼門】 神田神社:江戸の総鎮守  【江戸】【増上寺】【鬼門】 江戸城の裏鬼門に増上寺を配置  【江戸】【増上寺】【鬼門】 赤坂の山王日枝神社も江戸を守る   【江戸】【山王日枝神社【鬼門】 天皇の国から武士の国へ  【天皇】 浅草寺も鬼門封じに  【江戸】【浅...

徳川慶喜を守る彰義隊は床几(しょうぎ)から

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徳川慶喜 :大正まで生きる    ※国会図書館 鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)で徳川軍は敗れました。 15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ、1837- 1913)は大阪から軍艦に乗って、江戸にもどります。 勝海舟に「あとは頼む」と言ったきり、上野の寛永寺で謹慎しました。 彰義隊が寛永寺を守ることになりました。 床几(しょうぎ) 彰義隊とは、「床几(しょうぎ、腰掛け)」に由来します。 将軍家をささえる組織という意味です。 ※幕末 刀痕 弾痕 探訪記 1868年の上野戦争で、彰義隊は寛永寺に立てこもり、最後の反抗を試みました。 彰義隊は、「天海万歳!」とさけびながら、薩長に襲いかかっていきました。 寛永寺・天海の軍隊は、最後まで徳川を守ろうとしました。 しかし1日で壊滅しました。 薩長側は徳川家の守り本尊である寛永寺を焼き尽くしました。

天海が平将門の霊を神田神社に移す

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天海が平将門の霊を神田神社に移す 江戸の総鎮守、神田神社 芝崎納豆 男坂。神田神社は台地に 1590年に 55歳の天海は、川越・喜多院に移ります。 天海は、それまでは一種流浪の学問僧でした。 同じ年の1590年、家康は初めての江戸入りを果たします。 川越・喜多院の天海は多くの僧と共に、家康によばれました。 言い伝えによれば、 このとき天海は不老長寿の秘薬として、川越の納豆を献上しました。 家康は、この納豆をいたく気に入りました。 やがてこの芝崎納豆は江戸の名物になりました。 いまも芝崎納豆は、参道のみやげ店で売っています。  徳川家康・秀忠・家光の宗教顧問・天海は神田神社に平将門(たいらのまさかど)の霊を、 大手町(旧称は芝崎)から今の地に分祀(ぶんし)し、 江戸の町の総鎮守にしました。 1603年家康が江戸幕府を開いた年です。 ◇                    ◆                    ◇ 平将門は朝廷に反抗した朝廷の敵でした。 天海は、民衆に人気のあった 将門を江戸の街を守る神様にすることにより、 江戸の民が尊皇思想に傾斜しすぎないように しくみました。 徳川幕府の基盤は、初期はまだ脆弱でした。 1874年明治天皇が神田神社に参拝することになりました。 明治政府は、神田神社内の朝敵・将門の霊を格の低い別のところへ移してしまいました。  この措置は江戸っ子の反発を買いました。 江戸っ子の意向を組んで、1984年(昭和59年)になって、ふたたび本殿に移されました。 ◇                    ◆                    ◇ 神田神社の通称は、神田明神です。 明神(みょう...

天海、川越・蓮馨寺の源誉存応(げんよぞんのう)と論争

天海、川越・蓮馨寺の源誉存応(げんよぞんのう)と論争   川越・喜多院の天海は、蓮馨寺(れんけいじ)の源誉存応と論争をしたとの記録が残っています。 徳川家康はこのように、 天台宗の天海、浄土宗の源誉存応などの助言を受け、 宗教政策をおこなっていました。 源誉存応(げんよぞんのう)

徳川家康は260年の平和を構築

仏教では浄土はあの世にあります。 神道では、この世にあります。 神・家康はこの世を浄土にしようとしました。 幼いころ10数年も人質に取られ、戦乱で苦労した家康にとり、 厭離穢土 欣求浄土(えんりおど ごんぐじょうど) とは、 「戦乱で汚れた世界(穢土)を嫌い、離れ、平和なこの世(浄土)を願いつくる」ことでした。 戦乱のない地上天国の実現が家康の夢でした。 家康は、極楽に行くことを考えていませんでした。 参謀格の天海は、家康の意をくんで、    徳川家康を「東照大権現(とうしょう だいごんげん)」 という平和の守護神にして、260年にわたり、幕府の永続と恒久平和をもたらさんとしました。 ※ 東照大権現 とは? 東方に照る如来が、権(か)りに神となって現れることです。 「権現」とは、仮に仏が神に姿を変えることです。 徳川家康は、北斗七星となり、天を支配しました。 江戸時代は、経済成長一辺倒の無縁社会ではなく、芸術、文化が国民生活に溶け込んだ社会でした。 世界史上めずらしいことです。 少年時代から諸国(現代でいえば、全世界)を巡り歩き、学び、平和な社会の大切さを知り尽くした天海にとって、徳川家康の願いは自分の願いでもありました。