【武蔵観研通信】320号:2021年11月29日

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【武蔵観研通信】320号:2021年11月29日            

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                                  【 編集発行  桑原政則 】   

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★ 人物 

川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ (書きかけ)

https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_28.html

 

徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある現代日本を準備 <天海コラム#8

https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_24.html

 

武田信玄は、天下統一前に病没    <天海コラム#7

https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_23.html

 

信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ     <天海コラム#6

https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_19.html

 

15代徳川慶喜(よしのぶ、ケイキ)。徳川政権を無血で天皇に返上。11月22日没  

https://kuwabara03.blogspot.com/2016/11/11221913.html

 

ケネディ John F. Kennedy。第35代米大統領。1963/11/22暗殺

https://kuwabara03.blogspot.com/2017/11/blog-post_19.html

 

吉田松陰。日本を改革したスーパー先生。Yoshida Shōin。11月21日没

https://kuwabara03.blogspot.com/2013/01/blog-post_27.html

 

天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立      <天海コラム#5

https://kuwabara03.blogspot.com/2011/12/blog-post_10.html

 

ケマル・アタテュルク。トルコの父。 Kemal Atatürk。11月10日没 

https://kuwabara03.blogspot.com/2017/11/1110.html

 

江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4

https://kuwabara03.blogspot.com/2014/04/blog-post_8.html

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★全般: 

「カカト落とし」で 骨粗鬆症(こっそしょうしょう)予防【+1】 <ストレッチpg

https://kuwabara03.blogspot.com/2014/11/blog-post.html

 

〇 川越コラム

真行寺(しんぎょうじ):武田信玄の妹・真行尼が川越に開基  ※武田信玄生誕500年

https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/12.html

 

赤間川の「赤」は、「水」のこと?

https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_12.html

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川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ (書きかけ)

 川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ

松平 康英

松平康英(やすひで) 1830年7月16日。江戸~1904年7月5日。74歳。東京

2021/11/28 ウエスタ川越で、松平康英(やすひで)に関する初雁温知会50周年記念講演がありました。
講師は宮原一郎(川越市立博物館学芸員)さんです。
100名の参加者。皆様、2時間お疲れさまでした。

初雁温知会
俳優の市村正親も、メンバーです。

川越藩最後の藩主 松平 周防守(すおうのかみ) 康英(やすひで)は、遣欧(けんおう)使節の副使で西欧をめぐり、ロシアで国境画定の交渉をしました。
文久遣欧使節」は、1861年から1年間にわたりました。
※ 
文久遣欧使節行程『欧西行紀』 高島祐啓 1867年
文久遣欧使節行程 
医師・高島祐啓(31歳)

※ 周防守は、受領名(ずりょうめい)
周防守(すおうのかみ)は受領名(ずりょうめい)です。
徳川家康からの「松平」は、多すぎて区別がつきません。
下の名前(「康英」)は、タブーです。
したがって、受領名の周防守(すおうのかみ)が「通り名」となります。


松平康英(やすひで)は、この時33歳、優秀だったようです。

福沢諭吉29歳でした。
劇作家になる福地桜痴は22歳でした。

※フランスでは、ナポレオン3世に謁見しました。
イギリスでは、大英博物館をしました。
オランダでは、オランダ国王に謁見しました。
ドイツでは、プロイセン国王に謁見しました。

偉かったのは、行く先々の香港、パリ、ロンドン、ベルリン、アムステルダムで地図を購入したことです。
ロシアとの国境画定交渉には地図が威力を発揮しました。


松平康英(やすひで)の交渉相手の
アジア総督 イグナチェフ( Ignatiev、 Игнатьев)は、30歳。
ていねいな話し方で、交渉は紳士的でした。

ロシアの交渉は紳士的
ラクスマンは、日本との通商を求めるために、日本の漂流民をともない、1792年に根室に来航し、大黒屋光太夫らの漂流民を日本に送り返しました。
1804年、ラクスマンの入港許可証をもって、
レザノフが長崎に来航しました。
しかし幽囚同様の扱いを受け、通商は失敗しました。

松平康英(やすひで)の交渉は、
時代の急変で沙汰止みとなりました。


松平康英(やすひで)は、1865年には、老中になっています。
※ 老中は、毎月交代の月番制でした。
じきじきの采配をしたのは、家康、秀忠、家光、8代 吉宗、15代 慶喜は、です。

松平康英(やすひで)は、1867年に、棚倉から川越へ移転します。


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初代の松平 康親(やすちか)は、
長篠の合戦の功で、万字の鎗(やり)をいただき、
家康の「康」を得て、康親(やすちか)になりました。

1521年~1583年8月4日没

光西寺 


徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある日本を準備 <天海コラム#8

 徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある日本を準備

応仁の乱(1467)から大坂夏の陣(1615年)まで150年続いた軍事衝突を、

家康は「元和偃武(げんな えんぶ)」の宣言で終了に追い込みました。


「元和偃武」とは、あたらしい「元和の時代に、戦乱をやめる」ことでした。
武家諸法度(ぶけ しょはっと)という基本法が制定され、
幕府、朝廷、寺社ももめなくなり、国民も法に従い、近代社会への用意ができました。

アフガニスタンなどは、 いくつもの部族社会のままで、
政情不安が続いています。
国をまとめることは、一大事業です。

徳川家康のしかめ像
※ 浜松の三方ヶ原(みかたがはら)で武田信玄に破れたときのしかめっ面の画像。

明治になって、西欧と対等につきあえることができたのも、
徳川家康の「元和偃武(げんな えんぶ)」による日本の統一によること大です。

※ 感染症対策でも、
欧米の「自由を!私の民主主義を返せ!」とは、
日本は一線を画しています。
マスク、手洗い、3密回避で、日本は高い水準を維持しています。
江戸時代から、日本は 「きれい」が取りえです。


日本の生きる道は、観光立国の道です。

観光は、
    平和産業、
    防衛産業
でもあります。

「きれいな風景」
「明るいやさしい市民」
「清潔で犯罪のない国」は、
魅力的です。


日本は、ホテルのランクで言えば、安全清潔上品の「五つ星ホテル」です。


日本の広域観光の発展が、
楽しいあかるい世界をつくります。


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#1  天海僧正の養生訓。健康法。勤行歩く粗食学習    <天海コラム#1 
#2  天海は薬草にも通じていたので、家康の深い信任を得た 
#3  天海は、織田信長による比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ。<天海コラム#3
#4  江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4
#5  天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立   <天海コラム#5
#6  武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ<天海コラム#6
#7   武田信玄は、天下統一前に、無念にも、病没     <天海コラム#7
#7   徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある日本を準備   <天海コラム#8


武田信玄は、天下統一前に、無念にも、病没 <天海コラム#7

 武田信玄は、天下統一前に、無念にも、病没

流浪の学問僧 天海は、1571年35歳の時、さらに学習を続けるために比叡山への入山を試みました。

しかし、比叡山が織田信長により焼き打ちされ、果たせませんでした。

 

天海は、 明智光秀の世話で、比叡山の学僧らと共に、
武田信玄の元に
身を寄せます。

武田信玄は、民政を重んじた徳政の人、書物好きの文人でした。
また僧侶でもありました。

天海は、武田信玄の元で、天台宗について講義したりしました。
武田信玄は、天海より15歳年上で、
天台宗の権大僧正(ごんだいそうじょう。大僧正の次)でした。

徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に破れました。
しかし20歳以上年上の武田信玄に徳川家康は心酔します。


武田信玄 領 1568年 

武田信玄は、甲州、信州、駿河、上野(こうずけ)を領する天下一の有力者でした。

今川義元も上杉謙信も織田信長も消えたあとには、
武田信玄が上洛して幕府を再建するだろう、と衆目は見ていました。


しかし、武田信玄は、目的途上で病気のため53年の生涯を閉じます。
最後の勝利を得るためには、長生きが必要でした。

また、武田信玄は10年早く生まれすぎました。


今川義元    1519、1560、42年
武田信玄  1521、1573、53年
上杉謙信 1530、1578、49年
織田信長 1534、1582、49年 
天海  1536、1643、108年
豊臣秀吉 1537、1598、62年
徳川家康 1543、1616、74年
伊達政宗 1567、1636、70年

生没年 表  (作業メモ ※いずれ横棒グラフに)


川越観光案内 第12回 真行寺(しんぎょうじ):武田信玄の妹・真行尼が川越に開基

川越観光案内  第12回  真行寺(しんぎょうじ):武田信玄の妹・真行尼が川越に開基  

川越観光案内  第12回  真行寺(しんぎょうじ) 2016年7月

※ 旧稿の掘り起こしです。写真 9枚 は省略です。喪失。

副題↓

武田信玄の妹・真行尼が開基。本堂の引き戸には、武田家の紋所・菱形を4つ合わせた武田菱(びし) が燦然と。


NPO武蔵観研 会長  桑  原  政  則


(この下からリード) -----------------------------------

真行寺は、武田信玄の妹・真行尼 (しんぎょうに、八重姫)が建立しました。第2代住職は、武田勝頼の次男・靖清(やすきよ)です。

------------------------(ここまで)

武田信玄の妹・真行尼 (八重姫)が建立

真行寺(しんぎょうじ)は、武田信玄の妹・真行尼 (八重姫)が、1573年(天正元年)川越に真行寺を建立しました。
川越は寺の多い街(74寺)ですが、女性が開いた珍しい寺です。 武田の遺臣たちが安心して住める町でもありました。

武田勝頼の次男が真行寺第2世住職に

1582年には、武田勝頼の次男・靖清(やすきよ)が真行寺第2世住職に就任しました。在世中に本願寺末寺になりました。

真行尼の人間関係: 兄は、武田信玄

真行尼の父は武田信虎です。 信虎はわが子・信玄との確執で、駿河の今川義元のところへ逃れます。 80歳を超えて、全国流浪の旅にもでかけます。
兄は、武田信玄。信玄の側室は諏訪御前、その子は、 武田勝頼。
姉は、駿河の今川義元の正室。


武田一門は、甲府、八王子を経て川越へ

武田一門の者は、甲府、富士吉田、大月・八王子を経由し、坂戸市に多く土着しました:岩崎、若山、宮島、松本、坂西、小鹿野、小川、林、関口、小川氏など。 次第に川越の街道沿いに移り住むようになりました。 

真田信昌、幸政は、真田幸村のいとこです。真行尼に、甲府から同行しました。


真行寺の檀家は広範囲

かつては、寺は村の中心にあり、檀家がそのまわりを囲んでいました。 しかし真行寺にあっては、檀家が川島町、伊草、北田島、古家上、上福岡などと外側に広がっています。 天下大乱に備えてでしょうか。


坂戸は八王子千人同心の宿場として発展

坂戸は八王子千人同心街道の宿場として発展しました。 千人同心(せんにんどうしん)は、武田旧臣からなり、 日光勤番(きんばん、交代勤務)などを担当しました。 八王子を出ると、坂戸が1泊目の宿場にあたっていました。

坂戸では、武田遺臣たちは諏訪社をまつり、畑を水田に変えました。

宿駅を開いたのは後北条の大道寺駿河守で、1584年のことでした。 高麗(こま)川の流路の付け替えなどの大規模な自然改造をおこないました。


岩崎家の福沢桃介は電力王

岩崎家の福沢桃介は、慶應義塾で学んでいるときに、 福沢諭吉に見込まれて、福沢家の婿養子になりました。 明治、大正、昭和にわたり、日本の電力王として令名を轟かせました。 福沢桃介の先祖・岩崎兵庫は、 真行尼が甲州を出て、川越に真行寺を建立するまで護りました。 岩崎家は寺の筆頭総代を務めました。


岩崎勝平(かつひら)は鬼才の洋画家

岩崎勝平(かつひら)洋画家です。長く放浪し、 「孤独と貧困の鬼才」とよばれました。 友人の川端康成などの励ましだけが支えでした。 父は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者でした。 伯母には「激情の歌人」として知られる 杉浦翠子(すいこ、旧姓は岩崎、兄は福沢桃介)がいます。 岩崎勝平は福沢桃介の甥にあたります。 絵画は川越市立美術館が所蔵しています。


新選組の渡辺市造

 墓誌には渡辺七造と記されています。


真行寺の概要

山号          至誠山

院号          成就院

寺号          真行寺

宗派          浄土真宗東本願寺派(俗称:お東さん)。中院並びの光西寺も同派。
創建          1573年(永禄2年)

本尊          阿弥陀如来

住所         〒350-0838 川越市宮元町1-2

バス        東武バス(神明町車庫行)10~20分。東明寺橋(とうみょうじばし)下車1分

徒歩          蔵造りの町並みの交差点・札の辻を新河岸川に北進します。広済寺を過ぎ、東明寺           (とうみょうじばし)橋をわたり、右折した50メートル先の2階建ての寺院です。


【参考文献】

柳井賢治『真行尼物語』

松本憲和『諏訪の八重姫登場』【注】真行尼は諏訪頼重の娘に

【後記】

 本稿作成にあたり、真行寺の 第20代・武田浩学 住職(『大智度論の研究』、文学博士)に お世話になりました。ありがとうございました。取材・文責は桑原政則、写真は石山貞夫・文化財保護協会副会長です。

武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ <天海コラム#6

 武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ

武田信玄

肖像画:以前の太った画像は別人の説があり、
こちらが使われるようになりました。

2921年は、武田信玄の生誕500年です。
甲府市は、顕彰行事でにぎわっていることでしょう。

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1571年 35歳の時、好学の士 天海は、
勉学をさらに続けるために比叡山への入山を試みました。

しかし、比叡山が織田信長により焼き打ちされ、果たせませんでした。

 

天海は、 明智光秀の世話で、比叡山の学僧らと共に、
武田信玄の元に身を寄せます。

※天海も信玄も天台宗です。


武田信玄は、戦争嫌いで、書物好きの文人でした。
民政を重んじた徳政の人でした。
このころ武田は、天下一の有力者でした。


天海は、武田信玄のところで、天台宗について講義したりしました。

武田信玄は、天海より15歳年上で、天台宗の権大僧正(ごんだいそうじょう。大僧正の次)でした。

三方ヶ原の戦い <浜松

徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に破れました。

しかし、以降 30歳年上の武田信玄を、心酔します。

天海 ビジュアル

 生没年グラフ    天海  徳川家康  武田信玄  織田信長  豊臣秀吉



江戸を守る川越関連の人物、寺社



川越 喜多院の天海像


日光陽明門上の北極星と囲む無数の星


天海の足跡地図    Make my own map


天海肖像画 @会津美里町公民館前






伊達政宗から天海僧正への書状(2011年7月  龍興寺にて)

小江戸川越観光親善大使 2021年11月2日 川越市

小江戸川越観光親善大使

Kawagoe City Tourism Ambassadors

番号
名前
活動
1
井上 浩
元「サツマイモ資料館」館長、「川越市文化財保護審議会」会長
2
小幡 堅
イラストレーター
3
金子 正之
「川越藩行列保存会」会長
4
小杉 亘
「川越を着物で歩こう会」会長
5
立原 雅夫
「川越市姉妹都市交流委員会」顧問、「川越商工会議所」会頭
6
寺田 勝廣
「川越藩火縄銃鉄砲隊保存会」代表
7
仁村 薫
元プロ野球選手
8
ベーリ・ドゥエル
大学名誉教授、「川越いも友の会」会長、「川越市外国籍市民会議」委員
9
龍神 由美
「川越今昔ものかたり」ほか著者、元川越市教育委員
10
阿里耶
シンガーソングライター
11
お掃除ユニット
川越CLEAR'S
川越発アイドルグループ、川越クリーンパートナー
12
「英語の通じる街」実行委員会
国際観光都市化のための体制と機会づくりの支援
13
速水 けんたろう
NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」8代目うたのおにいさん
14
古今亭 志ん五
落語家
15
桑原 政則
「NPO法人武蔵観研」会長
最終更新日:2021年11月2日 
「小江戸川越」を全国へPRしていただくため、川越市のイメージアップのために活動している民間団体及び市民の方を「小江戸川越観光親善大使」として委嘱しています。  川越市 訂正:敬称(「さん」)を略しました。