浅野七之助。戦後日本の飢餓をララ物資で救った岩手人。Shichinosuke Asano。3月6日没
浅野七之助。戦後日本の飢餓をララ物資で救った岩手人。Shichinosuke Asano。3月6日没 浅野七之助 <盛岡市 ・1894年11月29日。盛岡市~ 1993年3月6日 岩手県の盛岡は偉人賢人を輩出しています。 「盛岡市先人記念館」には 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)、 米内光政(よない みつまさ)、 金田一京助 をはじめ130人ほどの先人たちの遺品や資料が展示されています。 宮沢賢治、 石川啄木、 野村胡堂 も盛岡人です。 「盛岡市先人記念館」にはわたしたち世代の命の恩人・浅野七之助さんも展示されています。 ◇ ◆ ◇ 1944年、4歳のわたし(桑原政則)は、焼け野原となる東京を逃れて、兄とふたりで三重県松坂の片田舎へあずけられました。汽車で10時間以上かかりました。 東京からイナカのイナカになれるのは大変でした。 関西弁の土地なので、東京弁もからかわれました。 小津安二郎監督の住んでいた村です。 1946年には三重県の津に移り、小学校に入りました。 教室が足りないので、2部授業でした。 廊下が教室代わりにもなりました。 窓ガラスはなく、代用ガラス(網戸にのりをはったもの)でしたので、廊下と教室の声はつつぬけでした。 1年生のガリ版刷りの国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ」とカタカナで記されていました。 当時は漫画もカタカナでした。 【※】 @@@ 蝶々は「テフテフ」でした。 2年になって突然ひらがなの教科書になりました。 今まではずっとカタカナで育っていました。 しかし、カタカナは軍国主義を助長するからとのことでひらがなに変えられてしまいました。 文字が変わり、外国人になったような気がしました。 学校は午前で終わったり、午後から始まったりでした。 その時々で来ない者も多くいました。 食べるものがありませんでした。 栄養失調で動けませんでした。 しかし、ある時から学校...