【NPO武蔵観研 通信】341号:2022年10月30日

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【NPO武蔵観研 通信】341号:2022年10月30日       

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                                  【 編集発行  桑原政則 】   

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★ 川越


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❖ 川越市役所新着    川合市長室    動画     議会3、6、9、12月
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★ 人物 

〇2830)春日局、3代 徳川家光の乳母で大奥を整える 10月26日没    <川越の先人 https://kuwabara03.blogspot.com/2009/05/blog-post.html


〇2829)伊藤博文(ひろぶみ)。明治政府の最大の指導者。農民出身で日本初の総理大臣。10月26日没 https://kuwabara03.blogspot.com/2020/10/1026.html


〇 2819)日蓮。日蓮宗を開く。Nichiren。 10月13日没 https://kuwabara03.blogspot.com/2016/04/4281283.html

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★全般: 【※】

〇 日本史

< NHK「鎌倉殿の13人」pg  

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┃後記┃国際情勢。政治日程。他。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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 源頼朝の系図    (改稿:2022年10月)

「源頼朝の系図」は、源氏の複雑な構図を、
源頼朝にしぼって、一本化したものです。
「代」を入れて、わかりやすくしました。

4,5,8,9が重要です。 4代 頼義、5代 義家、8代 義朝、9代 頼朝 となります。

4代 源 頼義は、東北の前九年・後三年合戦を鎮定。鎌倉に館を構えます。

5代 源 義家は、父とともに、東北の前九年・後三年合戦を鎮定。
自腹で参加武士に恩賞をさしだします。八幡太郎義家です。

8代 源 義朝は、頼朝の父です。関東で源氏のつながりを復元。鎌倉に宅地。子の頼朝は、父の8代 源義朝を深く敬慕し、お寺(勝長寿院)を建てています。

9代は、源 頼朝です。源頼朝にとっては、100年以上も前に、祖先が東北に大事な種をまいてくれたこと、また父の8代 源義朝が築き直した関東の人脈が、鎌倉での大きな成功のもとになっています。

清和天皇

せいわ

850-881

第56代天皇

貞純親王

さだずみ

?-916

上総・常陸・上野の太守。源経基の父

1代 源 経基

つねもと

894-961

清和天皇の孫。臣籍降下で 「源」に。

清和源氏(軍事貴族)の祖。

2代 源 満仲

みつなか

912 - 997


3代 源 頼信

よりのぶ

968 -1048

河内(かわち)源氏の祖

4代 源 頼義

よりよし

988- 1075

前九年・後三年合戦を鎮定。陸奥国の国司に 。鎌倉に館

5代 源 義家

よしいえ

1039-1106

八幡太郎義家。前九年・後三年合戦を鎮定。私財で恩賞を。下野、相模、武蔵、信濃の国司。子孫に足利尊氏

6代 源 義親

よしちか

? -1108

(粗暴な反社会人)

7代 源 為義

ためよし

1096-1156

(粗暴な反社会人)

8代 源 義朝

よしとも

1123-1160

関東で源氏のつながりを復元。鎌倉に宅地。

9代 源 頼朝

よりとも

1147-1199

日本初の武家政権を樹立。鎌倉幕府初代将軍

10代 源頼家

よりいえ

1182 -1204

鎌倉幕府第2代将軍

11代 源実朝

さねとも

1192- 1219

鎌倉幕府第3代将軍


臣籍降下(しんせきこうか)とは、
皇族が、平氏や源氏などの姓を与えられ、臣下の籍に降りることです。
皇室の財政をおさえるためです。

源頼朝の系図 (改稿:2022年10月)

 源頼朝の系図    (改稿:2022年10月)

1代 経基    2代 満仲    3代 頼信    4代 頼義
5代 義家    
6代 義親    7代 為義    8代 義朝    9代 頼朝
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「源頼朝の系図」は、源氏の複雑な構図を、

源頼朝にしぼって、一本化したものです。
「代」を入れて、見やすくしました。

4,5,8,9
が重要です。

4代 源 頼義は、東北の前九年・後三年合戦を鎮定。鎌倉に館を構えます。
5代 源 義家は、父とともに、東北の前九年・後三年合戦を鎮定。自腹で参加武士に恩賞をさしだします。八幡太郎義家です。
8代 源 義朝は、頼朝の父です。関東で源氏のつながりを復元。鎌倉に宅地。
9代は、源 頼朝です。

清和天皇せいわ850-881第56代天皇
貞純親王さだずみ?-916上総・常陸・上野の太守。源経基の父
1代 源 経基つねもと894-961清和天皇の孫。臣籍降下で 「源」に。
清和源氏(軍事貴族)の祖。
2代 源 満仲みつなか912 - 997
3代 源 頼信よりのぶ968 -1048河内(かわち)源氏の祖
4代 源 頼義よりよし988- 1075前九年・後三年合戦を鎮定。陸奥国の国司に 。鎌倉に館
5代 源 義家よしいえ1039-1106八幡太郎義家。前九年・後三年合戦を鎮定。私財で恩賞を。下野、相模、武蔵、信濃の国司。子孫に足利尊氏
6代 源 義親よしちか? -1108(粗暴な反社会人)
7代 源 為義ためよし1096-1156(粗暴な反社会人)
8代 源 義朝よしとも1123-1160関東で源氏のつながりを復元。鎌倉に宅地。
9代 源 頼朝よりとも1147-1199日本初の武家政権を樹立。鎌倉幕府初代将軍
10代 源頼家よりいえ1182 -1204鎌倉幕府第2代将軍
11代 源実朝さねとも1192- 1219鎌倉幕府第3代将軍



4代 源頼義、5代 源義家、前九年・後三年で活躍

  平安時代中期に、奥羽地方で前九年合戦(1051-1062)、後三年合戦(1083-1087)が起こります。4代 源頼義、5代 源義家の父子が鎮定します。
  源氏の名が響き渡ります。武士たちは、源氏と主従関係を結びます。
源氏の東国における基礎は、このときに築かれます。
4代 源頼義は、陸奥国の国司(知事)にもなります。また鎌倉に館を構えます。


5代 源 義家(八幡太郎 義家)、東北に勇名をとどろかす 

後三年合戦では、坂東武者(関東の武士)が徴兵されます。
勝利しますが、朝廷は内輪もめと判断し、恩賞を出しません。

5代 源義家(八幡太郎義家)は、自腹で坂東武者に恩賞を出します。
武者たちは大喜びで、「源氏には末代までしたがいます」と宣言するものもいます。

5代 源 義家(八幡太郎義家)に荘園を寄進するものもあり、
「天下第一 武勇の士」の評判をとります。


 8代 源 義朝、 20代半ばで東国の実力者に

  頼朝の父 8代 源義朝は、保元の乱、平治の乱に参戦した武将です。 京に縁が深く、鳥羽上皇にも近づきます。 子の頼朝は、父の8代 源義朝を深く敬慕し、お寺(勝長寿院)を建てています。

 その間、源氏の棟梁は6代、7代と質の悪い粗暴な反社会人が続きます。 源氏は落ち目になります。 そんななかで 8代 源義朝は、関東でとだえていた源氏のつながりを地道に築き直します。(【cf.】本郷和人)

  鎌倉の館を拠点とし、坂東武者のいざこざを軍事貴族として、仲裁します。

関東の主要武士団を傘下に治めていきます。 20代半ばで東国の実力者となっていきます。 31歳で下野守(しもつけの かみ)となります。 居所を4代 源頼義以来の鎌倉に移します。


9代 源 頼朝、鎌倉に700年間続く武家政権

源頼朝にとっては、100年以上も前に、
祖先が東北に大事な種をまいてくれたこと、
また父の8代 源義朝が築き直した関東の人脈が、
鎌倉での大きな成功のもとになっています。


【※】臣籍降下(しんせきこうか)

臣籍降下とは、皇族が、平氏や源氏などの姓を与えられ、臣下の籍に降りることです。

皇室の財政をおさえるためです。
たとえば、第50代 桓武天皇は、100名余りに対して、臣籍降下を行ないます。
子孫は、身一つで現地に下り、現地有力者の娘と結婚し、妻の実家の経済力、政治力をもとに新しい生活をはじめます。

東北地方は、源氏の英雄の地

東北地方は、源氏の英雄の地      書きかけ)

東北地方は、源氏の英雄の地です。 源頼朝にとっては、100年以上も前に、ここに祖先が大事な種をまいてくれました。

平安時代中期1051年-1062年、奥羽地方の豪族 安倍氏が前九年合戦を起こします。 4代目 源頼義、5代目 源義家の父子が平定します。
この戦いで、 5代目 源義家(八幡太郎義家)は、 関東から参加した武士に、私財から恩賞を出します。 なぜなら朝廷はこの戦いに無関心だったからです。
源義家の恩賞が、かえって、関東武士における源氏の名声を高めます。 こういった一連の行為が、9代目 源頼朝による鎌倉幕府創建の礎ともなります。



源頼朝の頃、北陸は木曽義仲、西国は平氏・朝廷が支配していました。
しかし東北の支配権は、未確定でした。
1183年、朝廷は東北の支配権を源頼朝に承認します。 1189年 源頼朝は奥州合戦を始めます。 これは、前九年合戦の再現です。
源頼朝は、全国に大動員をかけます。 源頼朝が武家の棟梁、清和源氏の嫡流であり、 鎌倉幕府という軍事権力が東国の支配者であることを世に知らせます。

有力豪族 上総 広常(かずさ ひろつね)、千葉 常胤(ちば つねたね)などの 房総の反平家武者が続々と参画します。
こうして、源氏の嫡流、武家の棟梁としての雄々しい頼朝の姿を、 創りあげていきました。


源頼朝が鎌倉に本拠地を置いたのは、 4代目 源頼義の領地が鎌倉にあったからです。
源頼朝の開いた武家政権は、明治維新まで700年続きます。

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源頼朝の系図 @@@生没年を挿入 1代目 源経基 つねもと 清和源氏の祖 平将門の鎮圧に功を立てる
2代目 源満仲 みつなか
3代目 源頼信 よりのぶ 河内源氏の祖
4代目 源頼義 よりよし 前九年合戦で戦勝 陸奥国の国司に
5代目 源義家 よしいえ 八幡太郎義家
6代目 源義親 よしちか
7代目 源為義 ためよし 47年間河内源氏の家督
8代目 源義朝 よしとも 平治の乱で滅亡 鎌倉に宅地あり  寿福寺跡
9代目 源頼朝 よりとも

後白河上皇の院政は、5代の天皇にわたり34年間

 後白河上皇の院政は、5代の天皇にわたり30年余


・1127年10月18日-1192年4月26日。64歳

はじめに、院政について説明します。
白河、後白河、後鳥羽の3院政をとりあげます。

白河天皇と後白河天皇は別人です。
後白河天皇は、「白河」にあこがれて「後白河」にします。


・白河天皇(1053年7月7日-1129年7月24日。76歳。院政 ?年間。)

・後白河天皇(1127年10月18日-1192年4月26日。64歳。院政  34年間)

・後鳥羽天皇(1180年8月6日-1239年3月28日。58歳 。院政 1198年-1221年。24年間)


白河天皇が院政を始めた理由は、 後継者争いを起こさないようにするため 藤原氏の影響力を弱めることです。

白河上皇は、天皇の力を院政で強めていきます。
院政は43年間続きます。

天皇OBは上皇となり、政治を行う「院政」が始まります。 上皇は「治天の君」とよばれます。


上皇は、いわば「やり手の会長」です。
法にとらわれず、勝手に政治をおこなうことができます。
下に「名前だけ天皇」を従えます。

次第に、皇位継承をめぐり政争が絶えなくなります。
院政では、 鶴の一声による「ちゃぶ台返し」が繰り返されるようになります

院政 :白河、後白河、後鳥羽


白河 院政:   
 72 白河    73 堀川    74 鳥羽    75 崇徳    76 近衛    

後白河 院政: 
77 後白河    78 二条    79 六条    80 高倉    81 安徳    82 後鳥羽   

後鳥羽 院政:
82 後鳥羽    83 土御門   84 順徳       



後白河天皇・上皇・法皇

・5代の天皇にわたり30年余の院政を敷きます。
・朝廷から武家へと政権が移りゆく過渡期の人物
平清盛の力を借りて、保元の乱、平治の乱を乗り切る。平清盛を公卿(くぎょう)へ出生させる。のちに平清盛は、後白河を幽閉する。平清盛病死、平家打倒のノロシが。
源頼朝、源義経と対立、協調
・後白河天皇は、白河天皇にあやかりたかったので「後白河」に。
源頼朝が、後白河を「日本国第一の大天狗(おおてんぐ)」とののしります。
・「今様(いまよう 流行歌  カラオケ )」狂いです。庶民の生活を学びます。
・天下三不如意「賀茂河の水、双六の賽、山法師の3つだけはどうにもならない」。山法師=僧兵
・歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を撰する



後鳥羽
天皇・上皇・法皇
文武両道 有能で、『新古今和歌集』を編さんします。
承久(じょうきゅう)の乱( 後鳥羽vs 北条義時
1221 <人に不意打ち〜> )を起こします。
後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門(つちみかど)上皇は土佐に配流(はいる)されます。前代未聞のことです。


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現 朝廷について

明仁(あきひと)上皇は、公務から手を引いています。

退位礼の儀  2019年


秋篠宮(あきしの みや)皇太子も、宮内庁も、言動にさらに慎重になっています。

秋篠宮家