江戸時代の時刻システム #1 鐘の数

寛永寺の鐘 向こうが川越の喜多院からの本堂

  • 鐘の数は、9を関数にして下一桁であらわしました。
    • 1番目の時刻= 0時→1番目X9=9   九つ
    • 2番目の時刻= 2時→2番目X9=18  八つ
    • 3番目の時刻= 4時→3番目X9=27  七つ
    • 4番目の時刻= 6時→4番目X9=36  六つ
    • 5番目の時刻= 8時→5番目X9=45  五つ
    • 6番目の時刻= 10時→6番目X9=54 四つ
  • 「明け六つ」とは午前6時のことです。
    「暮れ六つ」は、午後6時です。
  • 「お八つ」をとったのは、午後2時ごろだとわかります。
  • 「お江戸日本橋七つ立ち」とは、午前4時に日本橋から旅立つということです。
  • 江戸時代には、日の出と日の入りを基準とする「不定時法」という時刻制度が使われていました。
    夏と冬では、一刻の長さが違いましたが、生活には何の不便もありませんでした。
  • 鐘は気づかせのために最初3つ打ちます。「捨て鐘」です。
    それから最初は長~く、徐々に短く打っていくので、途中から聞いても何時 (なんどき)かわかりました。
  • 江戸では、上野の寛永寺が最初につき、その音を聞いてよそのお寺がついていきました。
    今でも寛永寺の鐘は、朝6時、正午、夕6時に時を告げています。
  • ・・・・・

  • 「お江戸日本橋七つ立ち、初上り、行列そろえてアレワイサのサ・・・」
    江戸の大商店は、京都や伊勢や近江の上方商人が多くて、従業員はそれぞれの地元から連れてきます。悪さができないように同じところの者をやといます。
    12歳ごろに勤めはじめ、白木屋では、入店後9年目に「初上り」といって50日ほどの休暇をくれます。
    上は行列になって、関西方面へ上って行く情景を歌ったものです。
    「中上り」は入店後16年目です。
    「三度上り」は22年目です。

川越・喜多院1月3日は、だるま市。元三大師(がんざん だいし)の命日 

川越・喜多院1月3日は、だるま市。元三大師(がんざん だいし)の命日 <川越
元三大師(がんざん だいし)、良源  * wp

・912年10月15日。 近江国~
985年1月31日没。73歳。第18代 天台座主。天台宗中興の祖


川越の喜多院では、正月3日が初大師で混みあいます。
良源は、元日の3日に永眠しましたので、元三(がんざん)大師 とよばれます。

良源は、天台座主 (ざす)もつとめた比叡山延暦寺中興の祖です。
比叡山の経済を立て直し、学問の向上をはかり、規律の維持につとめました。
良源は、都を守り、比叡山を守るために、自分の遺骸を比叡山の鬼門(=京都の東北)に捨てるよう、言い残しました。

良源が得度したころは、比叡山は南都(奈良仏教)の風下に立っていましたが、比叡山が上に立つべくつとめました。
良源は生涯で2度(937年と963年)比叡山を代表して南都と論争し、南都をまかしました。
これによって教団の位置を飛躍的に向上させました。


慈恵(じえ)大師の称号を朝廷から贈られました。

良源は、厄除 (やくよ)けの大師として信仰を集めています。
角大師(つのだいし)、豆大師、降魔(ごうま)大師といった異称をもっています。
角大師(つのだいし)の厄除けふだ
角大師(つのだいし)は、角を生やし、目はまん丸で、あばら骨が浮いています。
やせさらばえた恐ろしい形相で病魔悪霊を退散させます。
門札(かどふだ)を家の門戸(もんこ)に貼っておきます。
豆大師
慈慧大師の豆大師は、33体の豆粒のような大師像です。
豆は「魔滅」を意味します。


降魔(ごうま)大師の面 
また良源みずからが魔となり、魔を降(くだ)します。
降魔(ごうま)大師となります。

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喜多院の本堂・慈恵堂

喜多院コラム
喜多院は天台宗に属し、本堂は、慈恵堂(じえどう)とよばれます。

喜多院の本尊は、阿弥陀如来です。
寺院の本尊は、宗派ではなく、寺院により異なります。


天海コラム

元三大師(がんざん だいし)=慈恵(じえ)大師 と
慈眼大師 (じげんだいし、天海)をあわせて
「両大師」とよびます。
天海は、 慈恵(じえ)大師をもっとも尊敬していました。


蓮華 (れんげ)って?

蓮華座にお座りのお釈迦様
http://shop.yumetenpo.jp/goodsimg/dentou.co.jp/goodsimg/B-1/main-s.jpg

ヨガの蓮華座
加工元:
http://inst.play-sports.jp/blog/dictionary/img/entry/renge.gif

レンゲ

http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/k-online/cabinet/wagon7/w09041318.jpg

  • 蓮の花は、泥の中から出て来て、美しい花を咲かせることから、仏教では煩悩に染まらない清浄な聖なるシンボルとなっており、また浄土を意味します。
  • 泥の池は、この世と同じく汚泥 (おでい)に満ちています。
    汚水に染まらず、真っ白な清らかに咲くのが蓮の花です。
  • 蓮の花のことは別名、「蓮華」といい、仏の座るところを蓮華座といいます。
  • 蓮の語源は、「蜂巣」に由来します。
    • ハチス→ハス
  • タイなどでは、あいさつの時、手をあおわせますが、あれは蓮の花の形を模しているのです。
    したがって、両手はピッタリとはあわせません。
  • 古代インドでは、蓮の花は女性の生殖をいみし、多産の象徴でもありました。
  • ヨガに蓮華座という座り方があります。
    両足先をももの上に乗せます。
  • 中華料理のスプーンは、蓮の華に似ているので、レンゲと名付けられました。

桃太郎の話は鬼門から。なぜサル、トリ、イヌを家来(けらい)に。節分

桃太郎の話は鬼門から。なぜサル、トリ、イヌを家来(けらい)に。節分
サル、トリ、イヌは鬼門の反対に
(※)
ウシ、トラの方角は鬼門(鬼の出入り口)です。

鬼が牛の角、
虎の腰巻き
なのは、ウシ、トラの方角が、鬼門だからです。


『桃太郎』の話は、十二支に由来します。
桃太郎がサル、キジ、イヌを家来にしたのは、
サル、キジ、イヌが鬼門の反対の方角に住んでいるからでした。


ところで、鬼は何も悪いことをしていなかったようです。

福沢諭吉は言っています。
「桃太郎が鬼ヶ島へ宝をとりに行って、
それを自分のおじいさんとおばあさんにあげたのは、けしからんことだ。」

鬼とは「隠(おに)」のことで、姿がみえないという意味のようです。

(※)http://tony.cocolog-nifty.com/misc/images/oni.png

東照宮の「宮」って?


川越の仙波東照宮 (せんばとうしょうぐう)

1617年に静岡の久能山(くのうざん)から家康の遺骸を日光に移すとき、天海は亡きがらを黄金のみこしで運ばせました。

1300人の武士を随行させ常に天海がみこしによりそいました。

行列は、江戸城には立ち寄らず、川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。

一行は約20日間もかけて日光へ到着しました。
神の誕生を天下に告知するための天海の周到な演出でした。
「徳川家康は東照大権現となって再び現世に戻り、神威で徳川政権を守る。」

これが、天海が構想した家康神格化のプログラムです。
これにより泰平の江戸期が実現しました。

葬儀の導師をつとめた天海はこのとき80を越えていました。
今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。

天海は東照宮を全国に建てることに熱心でした。
600社ともいわれる東照宮が生まれ、東照大権現の神威は全国に行き渡るようになりました。

このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および川越の仙波東照宮を3大東照宮とよびます。
<*川越藩主に徳川幕府の重鎮が配されたのは、江戸の精神世界の建設者の天海が、川越の喜多院住職であったことも関係しています。老中は松平信綱など6名、大老は柳沢吉保、酒井忠勝の2名>

仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。

徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。
家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。

天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、260年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。
260年の泰平は世界史上希有なことです。
泰平の時代の礎を築いたのが家康、天海です。

家康は極楽に往生しようとは考えませんでした。
あの世に浄土をつくるのではなく、地上天国の実現を願いました。
神になり、死後もこの世にあって、戦乱のない平和な世の中をつくろうとしました。


東照宮(とうしょうぐう)は、もともとは東照社とよばれていました。

1645年天皇が東照社を、次の理由で、東照宮に格上げしました。

「1617年に東照社が日光に鎮座されて以来、国内、皇室、幕府も平穏安泰である。
これはひとえに東照社の神徳のおかげである。
それゆえ、東照社を東照宮と改め称したてまつる。」

この年より、毎年朝廷より東照宮と伊勢神宮にお使い (奉幣使、ほうへいし)が派遣されるようになりました。

「宮」は、伊勢神宮のように皇室の祖先神をまつる神社にもちいられます。
それ以外で宮号を称するのは、菅原道真の天満宮と東照宮だけです。
家康はこれで天皇と対等になりました。


あの世って、あるの?

この世だけ           この世とあの世
あの世はある、と信じた方がよろしいようです。
自分のためにも、ひとのためにもなります。

死後の世界を信じると、死の不安に打ち勝つこともでき、 人生が豊かになります。

死は終わりではなく、あすへの旅立ちとなります。


旅立ちですから、生きているうちに、この世でエネルギーを高め続けることが大事となります。

次の世界へ飛び込んでいくという積極的な気持が必要になります。

そうすれば、次の世界でも充実した生き方ができるはずです。


昔の人ほど、現世よりも他界を大事にしていました。

沖縄は、現在でもあの世が強い社会です。

というよりも、この世とあの世がつながっている感じです。

あの世へいっても、またこっちへ帰ってきたりします。
沖縄人の強さ、心の豊かさは、ここにあります。

イヌ、ネコなどの動物は、あの世の存在を知りません。

人間は、カミなしに人間らしくなれません。

カミを捨て、平等社会をつくろうとしたロシアの悲惨な末路をみればわかります。

心を忘れた「モノ、カネ、カイカク」の社会も、同様です。

彼岸(ひがん)とは、此岸 (しがん、=この世)に対します。

この世はあの世への入り口に過ぎません。

彼岸、あの世こそ、わたしたちのふるさとです。

ふるさとへ立派に帰るためには、今をしっかり、立派に生きることが求められます。


豊国(とよくに)神社の深秘(じんぴ) #2



秀吉の天下のころ、紀州の根来には根来衆(ねごろしゅう)とよばれる僧兵が1万人いました。
根来衆は、家康としめしあわせ、秀吉を責めることを画策していました。

1595年、逆に秀吉は10万もの大軍を宗教都市である根来(ねごろ)に繰り出し、根来寺(ねごろじ)内の2000もの堂舎を焼き尽くしました。

「秀吉の根来攻め」といわれます。
根来寺

1601年、家康は紀州の根来寺(ねごろじ)内にあった智積院 (ちしゃくいん)を京都に再興させます。

智積院には、ほろぼされた根来衆の怨念がこもっています。
しかも新しい智積院は、秀吉が長男捨丸(すてまる)をとむらうために建てた寺の中に建てられました。
智積院


1602年、家康は東本願寺を建立します。
「神 秀吉の道」を断ち切るためです。 

「本願寺」は通称「西本願寺」とよばれています。
「東照宮」とは日光の東照宮の正式名称ですが、「日光東照宮」とよばれているようなものです。
「神宮」とは伊勢神宮の正式名称です。 

1615年、家康は朝廷にお願いして、豊国神社の神号を廃させました。

これで、神 秀吉はなくなりました。 

これで、「不死身」を願って京都の「伏見」に居城を建てた秀吉の夢は消え果てました。

豊国廟(びょう)、豊国神社創立に尽力したのは、梵舜(ぼんしゅん)です。
家康は、梵舜について神道を深く学びました。
秀吉を神にする深秘(じんぴ)を知るに至りました。
のちに、みずからを神にする秘儀も学びました。
梵舜



寺社には深秘(じんぴ)が必要なゆえんです。
    《*家康は豊国廟をこわして豊国大明神の神号は、廃しましたが、東照宮に神ではなく、人間 秀吉をまつりました。》

    豊国(とよくに)神社の深秘(じんぴ) #1


    豊国廟(とよくにびょう)、豊国(とよくに)神社、本願寺

    神仏の本質にかかわることは、秘儀の領域に属します。
    極秘事項を、特に神仏の世界では、深秘(じんぴ)といいます。

    深秘(じんぴ)は明文化されません。
    深秘(じんぴ)を公開しないのは、公開すれば本質がそこなわれる恐れがあるからです。

    「神様を見ると目がつぶれる」といわれたり、本殿などが写真撮影を許可されないのは、神仏の世界には見てはならないことがあるからです。


    豊臣秀吉は東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られました。
    豊国廟(とよくにびょう)は西を向いています。

    阿弥陀ヶ峰【写真】阿弥陀ヶ峰のふもとには豊国(とよくに、ほうこく)神社が建立されました。
    豊国神社公式サイト
    豊国神社【動画】

    廟(びょう= 霊堂)と豊国神社を結ぶ線を西に延長すれば、本願寺に至ります。


    通称は「西本願寺」ですが、正式名は「本願寺」です。

    この京都の本願寺は、秀吉が土地を寄進したものです。

    大阪にあった本願寺は、信長に焼かれたままになっていました。
    本願寺は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の本山です。
    西方極楽浄土を約束する阿弥陀如来が本尊です。

    秀吉の死後の魂は、阿弥陀ヶ峰、豊国神社で再生し、本願寺で西方極楽浄土の阿弥陀如来のもとにおもむきます。

    神 秀吉は、阿弥陀ヶ峰→ 豊国神社→ 本願寺→ 阿弥陀ヶ峰を回り続け、 豊臣家を守り続けます。

    この豊国神社にまつわる深秘(じんぴ)を見破った男がいます。
    家康です。

      六地蔵って?


      六地蔵。川越市の中院

      六道輪廻(ろくどうりんね)
      輪廻とは、輪がぐるぐるまわることです。ヒンドゥー教では、永遠に此岸で生死を繰り返し、苦しみ続けます。
      たとえ天道にいても、おこないが悪いと別の世界へ転落します。
      仏教では、彼岸(ひがん)にある極楽に行くことができます。
      • お地蔵さまは、正式には「地蔵菩薩」といいます。
        菩薩(ぼさつ)であって、お釈迦様のような如来(にょらい)ではありません。
      • 菩薩は、釈迦如来のような如来になるための修行中の者です。
        修行のひとつに、「人助け」があります。
        人々と共に歩むので、なじみがあります。
      • 如来は地獄などには行きませんが、お地蔵さまは六道のどこへでも出かけます。
        六道とは六つの世界ということです。
        六道を歩き続けるので、錫杖(しゃくじょう)というつえをもっていたりします。
        手には宝珠(ほうじゅ)もっていて、これでみんなの願いをかなえます。

      箸墓(はしはか)はヒミコの墓


      ヒミコの墓は箸墓古墳、仏壇は伊勢神宮

      三輪山近くにある箸墓古墳 By産経新聞 
      • 箸墓(はしはか)古墳はヒミコの墓であるようです。
        •  邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、土器の科学分析の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館の研究チームが発表した。
          248年とされる卑弥呼の死去した年代と合致する。(2009年5月29日、産経新聞を抜粋編集)
        • 箸墓古墳
        • 箸墓古墳【画像】
      • 箸墓(はしはか)古墳は、纒向(まきむく)遺跡のなかにあります。
      • ヒミコとは、「日御子」 で太陽の子という意味です。
        • 中国は他国に軽蔑字を使う傾向にあります。【例】卑弥呼(いやしい)、倭(=日本、みにくい)、蒙古(無知で古くさい)、東夷西戎南蛮北狄(とういせいじゅう なんばんほくてき)
      • ヒミコ=アマテラス説があります。
        それによると、アマテラスが「天の岩戸(あまのいわと)」に隠れたいわゆる「岩戸隠れ」とは、皆既日食のことです。
        248年に皆既日食があり、昼をも夜にしてしまった責任をとり(=天人相関説=てんじんそうかんせつ)、ヒミコはなくなりました。
        皆既日食はそう頻繁にあるものではありません。
        ヒミコの前には158年に、あとには454年にあるだけです。
        当時の人は、皆既日食はヒミコの霊力がおとろえたからだと考えました。
        • 天人相関説とは、天の厄災(やくさい)は支配者の悪い行動のせいだとする考えです。
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      • 邪馬台国は元は九州にあり、大和に移っていったというのが「邪馬台国東遷説」です。幕末に都が京都から東京に移って行ったようなものです。
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      • ヒミコ(日御子)の霊は、伊勢神宮沖からあらわれ、伊勢神宮に降臨し、三輪山を照らし、西へ向かいます。

      天台宗と真言宗が1200年ぶりに交流


      より大きな地図で 延暦寺と金剛峯寺 を表示

      • 天台宗の座主(ざす)が、高野山を参拝することになりました。(『産経新聞』2009年5月30日)
      • 天台宗をひらいた最澄と、真言宗開祖の空海は、留学仲間で帰国後も交流を続けていましたが、晩年には仲違いしました。
        それ以来、表だった交流はありませんでした。
      • 宗教界に新しい動きが出始めました。
        寺院や神社が宗教宗派の違いを超えて協力し、霊場巡拝ルートをつくろうとする動きです。
        人々の心のやすらぎや社会の安定に貢献しようとするものです。
        神と仏が共存する「神仏習合」は、日本人の心にぴったりです。
      • いままで既成宗教の世界は、檀家制度などにもたれかかって、広報活動、社会活動に消極的でした。
        混迷の時代を解くカギは、新しい3K 「環境、観光、介護」です。
        宗教の活躍する場は、まだまだあります。

      徳川の葵の御紋の由来


      葵の御紋
      http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Mon-Tokugawa.png

      本多家の立葵(たちあおい)。2009年5月金沢市の藩老本多蔵品館にて。兼六園に隣接
      • 徳川家の家紋は三つ葉葵です。水戸黄門の「頭(ず)が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」の決めせりふで有名です。
      • 戦国武将は、勝ち取った領地や地位の正当性を示すために、名家の血を引いていることを家紋などであらわしました。
      • 葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として、将軍家、御三家、親藩の一部が使用しました。
        一門で本末を区別するためにいろいろな葵紋がありました。
      • 本多氏は京都の賀茂神社の神官の家でした。
        賀茂神社の神紋は葵です。
        家康は本多家のタチアオイを参考に、 三つ葉葵を徳川家の家紋にしたようです。
      • 藩老本多蔵品館公式サイト

      浅草寺も鬼門帯に


      • 浅草寺は「せんそうじ」と読みます。
        お寺の名前は音読みで読むのが普通です。
        • 熊谷寺は「ゆうこくじ」となります。
      • 浅草寺は徳川幕府の祈願寺です。
        家康が祈願寺に定めました。
        祈願寺(きがんじ)とは、一族の繁栄や無事をお願いするお寺です。
        徳川家の厚遇により浅草寺は一段と発展しました。
      • 浅草寺を祈願寺にしたのは、江戸城の鬼門封じになるとの天海の進言によるものです。
      • 浅草寺は、家康以前にも武将たちの信仰を集めていました。
        源頼朝、北条政子、足利尊氏なども参詣(さんけい)し寄進しました。
      • 江戸には江戸三十三観音札所があり、その一番札所が浅草寺(せんそうじ)です。
        江戸三十三観音巡礼とは、霊験ある33の寺院を巡る旅です。
      • ----------
      • 浅草大百科
      • 浅草観光.com

      伊勢神宮ー三輪山、東西の道#3

      • 三輪山(みわやま)は、 縄文時代から信仰されていました。万葉集でも「神の鎮座する山」とよまれています。
        山麓地帯にはいくつかの大きな古墳があります。
        2代の天皇の墓所(=御陵、ごりょう)もあります。
      • 伊勢神宮は、三輪山と東西の道を結ぶ位置に設定されたと考えられます。
        神は伊勢の沖から現れ、三輪山の頭上に輝き、淡路で沈むという構図です。
        「伊勢神宮ー三輪山」と「三輪山ー伊勢久留麻(いせくるま)神社」は等距離にあります。
        • 磯(いそ、海の波打ち際)が、転化して「伊勢」「五十鈴川」となりました。
      • 淡路島の伊勢久留麻神社は、西のお伊勢さんとよばれています。
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      • 室生寺、長谷寺も北緯34度32分にあり、この緯度は太陽信仰の拠点となっています。