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東照宮の逆さ柱は未完成の象徴

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12本の柱でできている陽明門 。wikipedia ふつうのグリ紋柱。 http://coopers.seesaa.net/article/112825067.html さかさ柱 陽明門は12本の柱で支えられています。 柱には、グリ紋が彫られています。 グリ紋は渦巻でできています。 1本の柱は、グリ紋の向きがさかさまになっています。 「魔除けの逆柱(さかさばしら)」です。 建物は完成した途端に崩壊が始まります。 「満つれば、欠ける」といいます。 一箇所だけまちがいを残し、まだ建築途上であることをあらわしました。 日光東照宮の彫刻

東照宮の彫刻

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陽明門。真上には北極星(徳川家康)が。 日光の陽明門は、「日暮らし門」ともよばれます。 彫刻、絵画を1日中、日が暮れるまで見てもあきないからです。 代表的な彫刻などと込められた意味を考えてみます。 日光の三猿は人生物語の一幕 東照宮の眠り猫は平和のシンボル 舜帝朝見 ( しゅんてい ちょうけん )の儀( ぎ ) 司馬温公(しばおんこう)の瓶割(かめわり) 周公聴訴(しゅうこう ちょうそ) グリ紋 唐子(からこ)遊び 東照宮境内案内図

唐子(からこ)遊び

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唐子遊び src:  http://plaza.rakuten.co.jp/porsche997/diary/20110914/ 陽名門の唐子(からこ)遊び彫刻も子供たちが安心して遊べる時代が来て、達成された泰平を示すものです。 唐子遊びは天下泰平のシンボルです。子供たちが安心して遊べる社会を希求していたことがわかります。 戦国時代には、子供たちが安心して遊べる環境にはありませんでした。 キリンなどの霊獣も太平の世のシンボルです。

日光東照宮の年表

1613年 天海、家康の命により日光山を管理。  <*  天海は、日光山の主体を二荒山の神から東照宮に移しました。> 1616年 4月1日 徳川家康は、枕頭で本多正純、天海、崇伝に遺言しました。「遺骸は久能山に埋葬し、葬儀は増上寺で営み、位牌を三河の大樹寺に立て、日光山に小さい堂を建てて勧請せよ」。 4月17日   徳川家康、駿府(静岡)で死去。 10月 2代秀忠、東照宮の造営に着手。  <* 1645年までは「東照社」であるが、便宜上、「東照宮」で統一してあります。 > 1617年 2月 徳川家康に朝廷より「東照大権現」の神号が贈られます。 3月(?) 東照社、完成。 4月 徳川家康の遺骸(いがい)を久能山東照宮から日光東照宮へ改葬。 1622年 2代秀忠、社参。 1625年 3代家光、社参。 1626年 日光の杉並木に植樹。以後20年以上。 1634年 東照宮の大改築に着手。1636年4月まで。  <*  「費用お構いなし」の幕府負担の大事業でした。> 9月 3代将軍家光が日光社参 1645年 朝廷から宮号を受け、東照社から東照宮に改称。 1646年 朝廷より、進物を奉納する日光例幣使(れいへいし)、開始。1687年まで。 1648年 家康33回忌に3代将軍家光社参。 1655年 輪王寺宮門跡が創立されました。 後水尾天皇の皇子・守澄親王が、日光と上野との両門主を兼ねるようになりました。 1728年 8代吉宗社参。 1776年 10代家治社参。 1843年 12代家慶(いえよし)社参。最後の社参。 1868年 神仏分離令により、日光は2社1寺(東照宮・二荒山神社+輪王寺)に分立。 1985年 神社本庁を離れて単立神社に。 1999年 ユネスコ世界遺産に。 *     *     * * 東照宮は、徳川家康を東照大権現という神にまつった神社です。 * 将軍の社参 秀忠は将軍として3回社参。他に1回。 家光は9回。他に1回。 その後は財政難で、8代吉宗、10代家治、12代家慶(いえよ...

北斗七星の配置上にある日光の寺社

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北斗七星の寺社 北斗七星は、北極星(家康)をまもる家来 のようなものです。 7つの建物群を結ぶと北斗七星の配置になります。 東照宮: 徳川家康 二荒山(ふたらざん)神社: 大猷院(たいゆういん):徳川家光 慈眼堂(じげんどう):天海 輪王寺(りんのうじ): 四本龍寺(しほんりゅうじ) 星の宮 徳川家康の霊は、     北極星→ 東照宮→ 江戸 と交信し、江戸幕府を守っています。

10月2日は日光で長講会(じょうごえ)

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山門から慈眼堂をのぞむ 慈眼堂へ向かう僧侶たち 10月2日は、天海僧正の命日です。 毎年、じょうごえ(長講会)が日光の慈眼堂(じげんどう)でとりおこなわれます。 じょうごえ(長講会)とは、 長 ~い、何日間にもわたる 講 論の法 会 (ほうえ、経典の催し)です。 慈眼大師(じげんだいし)・天海僧正が、好んでおこなっていたものです。 天海僧正の眠る慈眼堂は、3代将軍・徳川家光の大猷院(たいゆういん)の下方にあります。 天海僧正は、衰えた日光山に東照宮をお招きし、日光を復興した立役者です。 この法会には、天海大僧正の好物であった納豆汁も参加者に供せられます。 天台宗最後の大師、1648年 *     *     * 北白川宮能久(よしひさ )親王、最後の輪王寺宮。 慈眼堂境内にて特別公開。 北白川宮能久(よしひさ )親王 (1847-1895、48歳) *     *     * 大猷院 建物は東照宮を、墓は慈眼堂を向いています。 日光 地図 神田神社 #2:江戸の総鎮守 芝崎納豆の画像 家光の墓はなぜ日光に? 日光山の慈眼堂 *     *     * 今回の じょうごえ(長講会)には、天海僧正の誕生の町・会津美里町の歴史講座のみなさま40名以上に同行させていただきました。 会津美里町役場の阿部健太郎さんにいろいろお世話になりました。 観音寺の千田光明住職には、2011年10月1日観音寺にて観音寺についてのお話をたまわりました。 春日武之さん(日光殿堂案内協同組合理事長)のユーモアあふれる楽しいガイドで日光の歴史がさらに身近になりました。 NPO法人武蔵観研の富田忠さん、小林義朗さんには、今回のじょうごえ(長講会)取材の旅で終始ご協力いただき、楽しい座談の機会をもつことができました。 *     *     * 天海物語 目次 日光を歩く 目次

日光東照宮の回転燈籠はオランダからの献上品

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右:陽明門の左下に灯籠が 陽明門にある8角形の燈籠(とうろう)は、1636年にオランダから奉納されたものです。 軸を中心に回転します。 オランダからの東照宮への奉納は3回おこなわれました。 上部についている三葉葵(みつばあおい)の紋が、まちがえてさかさまになっています。 日光東照宮オランダ燈籠・模刻制作 *     *     * 1600年代アジアの海は激しく流動していました。 1624年オランダは台湾・台南市にゼーランディア城(安平古堡)を築きました。 日本との貿易中継基地に使うためでした。 そのころ日本は台湾などを拠点にアジア各地との貿易を拡大しようとしていました。 1626年2隻の日本船がゼーランディア城近くに立ち寄りました。 中国大陸との貿易のためでした。 オランダは、貿易品に課税し、日本が支払いを拒否すると、貿易品を没収しました。 1628年、報復のために、日本の朱印船が500人の乗組員と武器を満載して、ゼーランディア城を攻撃しました。 貿易品を奪い返し、オランダ人5人を人質に取り、長崎・平戸の商館を封鎖しました。 このころは、台湾があり、中国があり、東南アジアがあって、 大航海時代でした。 この事件の解決には10年かかりました。 オランダは、さまざまな品物を将軍に献上しました。 東照宮にあるアムステルダム製の銅の回転灯籠はこのときに献上されたものです。 回転灯籠の裏には、このようなドラマがありました。 【cf.】田中優子『江戸の想像力』 ▼ 朝鮮通信使や琉球慶賀使も日光を訪れ、 日光東照宮の宗教的権威を高め、 「世界の徳川幕府」 を海外に知らせました。 *     *     * 日光を歩く 目次 (改稿:2011年12月) *     *     * 江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 posted with amazlet at 10.01.24 田中 優子 筑摩書房 ...

二荒山(ふたらさん)神社は、山そのものが神

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   二荒山(ふたらさん、男体山)神社は、背後の二荒山そのものがご神体です。 奈良時代の末に勝道(しょうどう)上人が建てたといわれています。 自然をあがめ、多くの神木が環境を守っています。 二荒山神社 公式ページ *     *     * 沖縄の斎場御嶽(セーファ ウタキ)では、鳥居も建物もなく、石が置いてあるだけです。 沖縄にはなぜ神社がないの?斎場御嶽(セーファ ウタキ) *     *     * 日光を歩く 目次

久能山、新城、岡崎、比叡山・日吉大社にも龍脈が

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久能山、新城、岡崎、比叡山・日吉大社にも龍脈が 一直線の久能山、新城、岡崎、比叡山・日吉大社 北極星-日光-富士山-久能山を通る龍脈は、 新城、岡崎、比叡山・日吉大社へ通じています。 久能山(くのうざん)東照宮に家康は埋葬されました。 久能山(くのうざん)東照宮の本殿は西を向いています。 徳川家康関係の場所を守るためです。 新城市(しんしろし、愛知県東三河)には鳳来寺(ほうらいじ) があります。 家康の母が、子授けの祈願 をしたところです。 鳳来寺には東照宮もあります。 愛知県 岡崎市で家康は生まれました。 大樹寺(だいじゅじ) があります。 徳川家の母体である松平家の菩提寺です 。 大樹寺には東照宮もあります。 比叡山ふもとの滋賀県・日吉大社(ひよしたいしゃ)は、全国に2000社ある日枝(ひえ)・山王(さんのう)神社の総本宮です。 <※ 総本宮は「日吉」、他は「日枝」と名づけられています。 山王とは、日吉大社の別名です。> 京をまもる霊のつよい神様です。 比叡山にも日吉東照宮があります。    ・ 徳川家康埋葬地の久能山、    ・ 出生祈願地の新城、    ・ 生誕地の岡崎、    ・ 日吉大社 は、東西一直線に並び、龍脈が通っています。 <※ 日吉大社は、滋賀県坂本にありますが、便宜上京都にしました。>

日光- 富士山- 久能山の龍脈

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日光- 富士山- 久能山の龍脈 龍脈は、日光→ 富士山→ 久能山に 神君( 神 そして 君 主)の家康は、北極星となり、江戸を守っています。 <※ 川越は、日光の気のエネルギーを増幅し、江戸に受け渡す役目をしていたといわれています> 富士山も日光からの気の中継センターになっています。 日光からのエネルギーを富士山が増幅し、静岡市の久能山(くのうざん)東照宮と交信しています。  <※ 家康は1616年4月17日久能山に埋葬されました。> 久能山東照宮 【地図】 久能山の家康像は西を向いています。

家光の墓はなぜ日光に?

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wikipedia 3代将軍家光は、家康を神のようにあがめていました。 その気持を形あるものにしたのが日光東照宮の大造替です。 家康は家光が13歳の時なくなりました。 家光のもっていたお守りが現存しています。 「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」 ≪家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也≫ 「いきるもしぬるも なに事も 大ごんげんさま次第」 家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、 自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。 大猷院(たいゆういん)です。 天海廟の背後にあります。 天海の廟(びょう)所は家康との約束によって日光に決められていました。 大猷院 【画像】 家康、家光以外の将軍は、寛永寺か増上寺にまつられています。 家光は、天海を家康と同列視していました。 祖父のような親しみを感じていました。 家光は川越に9回も訪れ、天海僧正を訪れたりしています。 1638年に、川越大火によって喜多院のほとんどが消失しました。 家光は、天海僧正の喜多院の再建を命じ、 江戸城から客殿や書院を移築しました。 ・「家光誕生の間」 ・「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」 がそれです。 これらは、江戸城の唯一の遺構です。 家光は、天海が病気になったとき、1ヶ月の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。 家光が、もっとも敬慕する家康・それに代わる天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。 ---------- 徳川家光  ウィキペディア

川越は、日光からの気のエネルギー中継センター 

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川越は、日光からの気のエネルギー中継センター  陽明門の北極星と無数の星  <* 気は日光、川越から、江戸へ 日光には、巨大な龍穴(パワースポット)があります。 龍穴とはツボのようなもので、 気のエネルギーの巨大な貯蔵庫 であり、気の噴出する場所です。 また、 気の通り道を龍脈 と呼びます。 北極星となった徳川家康が、東照大権現となり、江戸を守るために、日光に気を送り込みます。 日光からあふれる気を受け止め、増幅し、江戸に受け渡すのが川越です。  川越は、武蔵野台地の北の端にあり、荒川という龍と入間川という龍をおさえる場所にあります。 川越は、2頭の暴れ龍をおさえ、日光からの気のエネルギーをしっかり江戸に送り込む気の中継所です。 気は日光、川越から江戸へ流れ込みます。 川越の喜多院当主でもある天海は、北極星である神・家康が、日光、川越を経由して、江戸を守るというしかけをつくりました。 【cf.】荒俣宏他