(十字路)福島、200年前の天災移住
- 2011/7/8付
- 日本経済新聞 夕刊
- 786文字
東電福島第1原発から20キロ圏内にある大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市などの住民は一時避難を強いられている。江戸時代にこれら地域を所領していたのが相馬中村藩。約200年前には、逆に加賀藩砺波、現在の富山県から農民を受け入れた史実がある。「入り百姓」と呼ばれた農民移住は、疲弊していた藩再興の秘策だった。
相馬藩の危機は1783年の天明の大飢饉(ききん)がきっかけだ。約4万8千人の領民のうち、1万3千人が飢餓や病気で死に数千人が土地を捨て流浪したといわれる。
藩復興の最後の一手として採られたのが、浄土真宗門徒の移住受け入れだった。まず僧侶を富山より招き、寺を興して信徒を呼び入れた。真宗門徒が9割を占める砺波は人口過剰に陥っており、越中(富山県)側にも新天地を求める事情があったようだ。
相馬藩への移住者を優遇した。一家族ごとに十両を与えたうえ、有力な農家を引き受け責任者とする体制を作った。開墾後5年間を無年貢とする税制優遇策も設ける手厚い策だったという。移住者は土葬の地で火葬するなど主に宗教上の異質さから時に差別を受けたが、団結心の強さで乗り越えた。
移住者が開墾した田畑は約3万石に及び、もともと6万石の相馬藩の財政が好転する原動力となった。人口減を移民で埋め合わせたうえ、耕作地の拡大にも成功した。
産業が農業中心だった江戸時代と現在を同列に論じることはできない。だが、現在は日本中が人口減に直面し、耕作放棄地は日本全体で埼玉県と同じ38万ヘクタールにも上る。避難民受け入れは単に人道問題でなく、新たな町おこしであることを歴史は示しているのではないだろうか。
双葉町からの一時避難を受け入れている群馬県片品村は、避難民の就業支援に熱心で、永住できる環境を整えている。避難民の感情に配慮しながら、避難から移住へ段階を進めている実例は、すでに少なくない。
(九楽)