ペリーの航路図。ニューヨーク側⇒ アフリカ南端⇒インド洋⇒日本
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【受験】ペリー来航 1853年:「イヤ(18)でござん(53)す、ペリーさん」
アメリカは、日本を清との貿易の中継地にしようとしていました。
ニューヨーク側(大西洋側)から出発したのは、
西海岸への道路も鉄道もなかったからです。
アメリカの州の独立順 ジフ・アニメーション
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ペリーの航路(1852年11月24日ー1853年7月8日日本離陸)
- Norfolk, Virginia
1852年11月24日発。 - 西進し、アフリカ沖へ
- アフリカ南端Cape Town
- Sri Lanka
- Singapore
- Hong Kong
- Shanghai
1853年5月17日、サスケハナ号に旗艦を移す。 - 沖縄
1853年5月26日ー6月9日、上陸拒否にもかかわらず、市内を行進しながら首里城まで進軍 - 浦賀
1853年7月8日、4隻が停泊。
阿部正弘は、7月14日横浜への上陸を許し、陸上を川越藩と彦根藩、海上を会津藩と忍藩に警備させました。浦賀奉行はペリーと会見しました。
艦隊は7月17日に日本を離れました。
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1861年、南北戦争がおこり、国内はてんやわんやとなり、対外進出は一旦止まります。
この頃のアメリカは小国、植民地にする余裕がありませんでした。
虚勢を張っていました。
【受験】南北戦争 1861年:「イヤ!無意味な南北戦争」
アメリカのやり方は今も変わっていません。
おどしです。
ペリー⇒ マック⇒ トランプ
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【追】
わたし(桑原政則)も1960年代に川崎汽船の峰島丸で、門司からベトナム、タイへでかけました。
3000トンの貨物船でした。
門司から出て嵐に会い、一旦別の港に避難しました。
揺れ通しでした。
サスケハナ号は3000トン未満の船でした。
道中がおもいやられます。
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