河野太郎 交錯する打算と悲願 シンゾウとの距離
2017/12/12 nkを抜粋編集
<まとめ>
- 農林大臣・河野一郎→ 衆議院議長・河野洋平→ 河野太郎
- 宏池会(岸田文雄)
- 第2派閥・麻生派:河野太郎
- Facebook 河野太郎)
11月1日、皇居での閣僚認証式の待ち時間。首相、安倍晋三(63)が傍らの外相、河野太郎(54)に語りかけた。「昔、2人で街頭演説したけど誰も聞いてくれなかったよね」。20年前、安倍と河野は自民党青年局で局長、局次長のコンビを組み、遊説した。その思い出話に河野は「そういえば行きましたよね」。
8月の内閣改造。サプライズは「河野外相」だった。父、洋平(80)は官房長官時代に従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認めた河野談話を出した。リベラルの代表格、洋平と安倍の外交観は対極とみられている。太郎と安倍の個人的なつながりが深いわけでもない。
2015年に防災相で初入閣した際、同じ神奈川出身で当選同期の官房長官、菅義偉(69)が推した。外相就任も同様の構図だったが、安倍も防災相時代の熊本地震への対応を「危機管理ができる」と評価する。
党内は太郎をポスト安倍に引き上げようとしているとざわめいた。宏池会系である麻生派の太郎の重用は宏池会会長で政調会長の岸田文雄(60)との間にくさびを打つことにもなる。
慶大を中退し、首都ワシントンにある米ジョージタウン大に留学した太郎は、当選1回生のころから志願して外務委員会に所属した。親子二代にわたる外相は念願のポストでもある。8月の新閣僚の呼び込み直前、洋平に電話をかけた。
「外相になります」。洋平は元首相、宮沢喜一からかけられた言葉を引用し「外務省が持ってくる出張の半分は削らないと死ぬぞ」と激励した。父だけではない。農相だった祖父、一郎は1956年、ソ連の共産党第1書記、フルシチョフと日ソ共同宣言を巡り交渉した。
一郎がフルシチョフから譲り受けたペーパーナイフは河野家の家宝だ。11月24日、モスクワを訪れた太郎はロシア外相のラブロフにそのナイフの話を披露した。「一郎はこの建物に泊まったこともあるそうです」
洋平は首相になることができなかった総裁。池田勇人の後継を佐藤栄作と争った一郎は志半ばで亡くなった。「政治家になろうと思ったら誰でも首相になろうと思うでしょ」。太郎の目標は明確だ。
初めて総裁選への出馬を模索したのは06年。首相だった小泉純一郎(75)の後継を決める選挙で、太郎が属する派閥の領袖、麻生太郎(77)も出馬した。派閥の論理に逆らって出馬するのは本来ご法度。仁義を切るため訪れた太郎に麻生はこう返した。
「派閥から2人候補が出るなんて、うちもずいぶんデカい派閥になったもんだ。いつでも戻ってこい」。結局、20人の推薦人は集まらなかった。
自民党が野党に転落した直後の09年、菅らが支えて総裁選に初出馬したが、谷垣禎一(72)に敗れた。12年は09年に太郎を支援した議員の多くが安倍支援に回り、出馬できなかった。
遠慮のない物言いや脱原発は党内で「異端」に映る。一方で政治は多数を制するゲーム。総裁に就き、その後の衆院本会議で首相指名を得なければ、首相の座はつかめない。
太郎にとって首相への道筋の一つは麻生派の後継になること。「洋平から派閥を引き継いだ麻生は太郎に派閥を戻すのではないか」。党内にはこんな観測がある半面、麻生はまだ派閥の継承者を公言していない。
「どこで何が起こるか分からない。その時その時に判断しなくてはならない」。太郎は10月の衆院選後の日本経済新聞のインタビューで来年の総裁選についてこう語った。
安倍の打算と太郎の悲願――。太郎は現在、54歳。洋平が新自由クラブを立ち上げた39歳をとうに越した。洋平が総裁に就いた56歳を19年1月に迎える。太郎は政治家として正念場にさしかかる。(敬称略)
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