蒲生氏郷(がもう うじさと)。早世の天才武将。松阪、会津若松の基礎をつくる。3月17日没。 

蒲生氏郷(がもう うじさと)。早世の天才武将。松坂、会津若松の基礎をつくる。3月17日没 

蒲生氏郷

・1556年~1595年3月17日。40歳

蒲生氏郷の婚姻関係

蒲生氏郷(がもう うじさと)は、13歳の時、
人質として織田信長のもとに送られました。

14歳で戦で大きな手柄を立て活躍します。

織田信長は氏郷の非凡な才能を愛し、
娘の冬姫とめあわせ

氏郷を生まれ故郷の近江の日野に返します。

日野では、氏郷は信長の城下町づくりの手法を取り入れ、
行政、経済を改革し、繁栄の時代を築きました。

日野町の位置 【地図】


蒲生氏郷の
息子・
蒲生秀行は、
家康の娘・振姫(ふりひめ)を妻にしました。

信長が本能寺で撃たれた後は、
蒲生氏郷は豊臣秀吉の傘下に入ります。


秀吉のもとで合戦に活躍し、
   伊勢 松坂12万石をあたえられます。


九州征伐、小田原征伐の功により、
     36歳で会津の領主となります。


蒲生氏郷は、豊臣秀吉のもとで、
  奥州の伊達政宗を監視し、
  関東の徳川家康を牽制
する役
をになうことになります。


蒲生氏郷は、会津若松の基礎をつくりました。
外濠を築き、郭内は家臣の、郭外は庶民の住居にしました。
要所に社寺を配置し、現在の会津若松の骨格をつくりました。

商工業の発展のために、いくつかの市(いち)を設けました。
上方(かみがた)から
漆器(のちの 会津塗り)、金工、酒造の技術を移入しました。
これらは現在にまで続いています。


故郷・日野の「若松の森」にちなんで、
伊勢の松阪を「松坂」
としたように、
会津若松の旧称・黒川を「若松」改めました。


幼名は、 鶴千代でした。
会津若松の鶴ヶ城は、
    鶴千代
ちなみます。 
<* 鶴ヶ城は、正式名は若松城です。当時は、地名の若松を公式名にしました。>


蒲生氏郷は、文化人でもあり、
茶道では千利休七哲の1人でした。
利休の子を保護し、千家茶道の再興につくしました。
茶室・麟閣(りんかく)は、鶴ヶ城に移築されています。

キリスト者で「レオ」という洗礼名をもっていました。

わずか39歳でこの世を去りました。


蒲生氏郷のあと、13歳の息子が継ぎますが、病弱のため宇都宮に減封されます。
レオ氏郷 南蛮館   :2010/10   会津若松

蒲生氏郷の興徳寺、豊臣秀吉もここに宿泊  / 2010/10
【※】  豊臣秀吉は、奥州仕置きの際、ここを庁舎にしました。秀吉最北端の地です。

蒲生氏郷の五輪塔、興徳寺   / 2010/10
【※】 五輪塔は、下から「地・水・火・風・空(ちすいかふうくう)」をあらわします。
古代インドでは宇宙の構成要素でした。
五輪塔 【図解】


【名言】

    限りあれば  吹かねど花は散るものを  心みじかき春の山かぜ

 <(花の命は)限りがあるのだから、 吹かなくても散るのに、
気の短い春の山風だことよ 。>

1595年、39歳で死去する際の辞世の歌です。
歌碑は墓前にあります。

秀吉は蒲生氏郷を遠くへ置きたかったようです。
徳川家康を遠くの江戸へ置きたかったように。

◇                    ◆                    ◇

【蒲生氏郷 年譜】

1590年
会津を豊臣秀吉よりあたえられました。
前の領主・伊達政宗は今の宮城県へと移りました。

1592年
朝鮮の役へ加わりました。

1593年
会津の鶴ヶ城がほぼ完成します。

1595年
氏郷が死去します。
享年39歳です。





蒲生氏郷公像  【画像】滋賀県蒲生郡日野町


【12分】松阪歴史探訪・松阪の偉人編 「蒲生 氏郷」

*     *     *

【まとめ】

・妻は織田信長の娘。息子の妻は徳川家康の娘。
・近江 日野→ 松坂→ 会津へ。
・会津若松のまちづくり。



【追】伊勢商人と近江商人は同根

蒲生氏郷は、伊勢に近江日野の商人を招いて楽市楽座を奨励しました。
これが伊勢商人の始まり(「伊勢っ子正直」)です。
    【cf.】伊勢関係のデパート:松坂屋、伊勢丹、三越



蒲生氏郷公ゆかりネットワーク共同宣言
 会津若松市、松阪市、日野町


蒲生氏郷 天下人から愛され、畏れられた器量人 家臣思いの勇将  【+14】