【観光用】
川越は江戸の母とよばれます。
1153年秩父出身の秩父重綱の次男が河越館を建て、河越氏をおこします。
3男は江戸に進出し江戸館を建て、江戸氏となり江戸を支配します。
1457年に太田道灌(どうかん)と父らは河越城を築いたあと、江戸に江戸館を築きました。
太田道灌は、川越の日枝(ひえ)神社を江戸に分霊しました。
【※】江戸時代から、川越は河越に。
1879年、川越・喜多院の東叡山(とうえいざん)という山号は、寛永寺が上野に建立(こんりゅう)されると移されました。
これにより寛永寺は、関東の天台宗の総本山になりました。
寛永寺の本堂は、川越から移築されたものです。
こうして、江戸の建設には、川越、武蔵地域が大いにかかわりました。
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また、川越は、江戸の風情を残す町といった意味合いでは小江戸とよばれます。
小江戸川越とは、「コンパクトな川越」(こじんまりした川越)という意味です。
川越の蔵造りの町並みなどがそうです。
喜多院には家光誕生の間、春日局化粧の間があります。
江戸城から移築されたものです。
川越氷川神社内の八坂神社は、江戸城内の東照宮を縮小したものです。
これらは江戸城内の唯一の遺構です。
川越まつりは、江戸の天下祭の姿をもっともよく伝えています。
川越藩主には徳川幕府の重臣が就任しました。
川越藩主には、徳川幕府の大老2人、老中(ろうじゅう)6人がなっています。
幕府が川越を江戸の北の守りとして大事な拠点だと考えたからです。
老中は、4〜5人からなります。
大臣のようなものです。
大老は臨時の職でしたので、常設の職では老中は最高の重職でした。
このように、
川越は、
江戸の母であり、
小江戸でもありました。