松平容保(かたもり):最後の会津藩主

松平容保  WP
松平容保(かたもり、1835- 1893、59歳)は最後の会津藩主です。

家老の西郷頼母(たのも)らの反対にもかかわらず、
27歳で、京都守護職を引き受け、新撰組を使ったりしました。
謹厳実直な性格で、藩祖・保科正之の家訓を守り通しました。
この間、28歳から33歳までのことです。

朝廷と幕府の協力(公武合体)に力を尽くし、孝明天皇から厚く信頼されます。

孝明天皇からの極秘文書を2度受け取っています。

松平容保は、肌身に竹筒をつけていました。
1893年(明治26年)の死後、近臣があらためて見ると、孝明天皇の宸翰(しんかん)2通でした。

京都守護職を引き受けたのは、藩祖・保科正之の教えに従ったからでした。
会津家訓(かきん)には、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」とあります。

15代将軍・徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)で負け、江戸へ逃げ戻ってから、ひたすら新政府に恭順しました。

ひとり松平容保は、逆賊の汚名を着せられました。

戊辰戦争(1868- 1869)では、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に対し会津戦争をおこない、籠城します。

会津藩は開城後は城地を没収されます。

晩年は日光東照宮の宮司を務めました。