第27回 大塩平八郎~庶民の反乱~

第27回 大塩平八郎~庶民の反乱~

■ scene 01 “大阪に大塩あり”

大塩平八郎は、大阪の奉行所(ぶぎょうしょ)で働く、「与力(よりき)」という江戸幕府の役人でした。
十手を持って大阪の町を東へ西へかけめぐり、さまざまな事件を解決。
“大阪に大塩あり”と、その名を全国にとどろかせました。
しかし、大阪の町の役人には不正と腐敗(ふはい)がうずまいていました。
大塩は正義の与力として、敢然(かんぜん)と悪に立ち向かうのでした。


■ scene 02 大阪町奉行所の与力

大塩平八郎は、江戸時代の終わりごろ、飢饉(ききん)のために苦しむ庶民(しょみん)のために立ち上がった人物です。
大塩は、大阪の町奉行所(ぶぎょうしょ)で働く「与力」という役人でした。
日々、大阪の町を見回り、犯罪捜査(そうさ)や犯人逮捕(たいほ)にあたっていました。
当時、経済の一大中心地であった大阪には、米や魚などさまざまな品物が集まり、多くの商人が活躍(かつやく)していました。


■ scene 03 不正をにくむ正義漢

そのかげで、江戸幕府の役人は商人から賄賂(わいろ)を受け取り、たがいの癒着(ゆちゃく)が深まるなど、不正や腐敗(ふはい)が進んでいました。
大塩にもたびたび賄賂がおくられました。
しかし大塩は決して賄賂を受け取ることはなく、同僚(どうりょう)の与力たちに、「不正を許しているから、取り調べが進まないのだ!」と強くうったえました。
大塩は、不正をにくむ正義漢でした。
その後も、大塩は清廉潔白(せいれんけっぱく)な与力として数々の事件を解決し、汚職(おしょく)を摘発(てきはつ)するなど大活躍(かつやく)。
やがて、『大阪に大塩あり』とまでいわれるようになりました。


■ scene 04 私塾で陽明学を教える

さらに大塩は、幕府の高官がからむ大規模な汚職(おしょく)事件の捜査(そうさ)に乗り出します。
しかし、幕府の判断で3人の役人が処罰(しょばつ)されただけで、事件はうやむやになります。
与力の仕事に限界を感じた大塩は38歳(さい)で辞職。
その後、自ら開いた塾(じゅく)で、中国の明(みん)の時代におこった陽明学(ようめいがく)の研究と弟子の教育に専念しました。
大塩が特に大切にしていた陽明学の言葉があります。
「知行合一(ちこうごういつ)」。
知識は行動をともなってこそ意味がある、本当の知識は実践(じっせん)をともなわなければならない、という意味です。


■ scene 05 ドキリ★庶民のために乱を起こした

1833年、天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)が起こります。
全国の村や町は、飢(う)えに苦しむ人であふれました。
しかし、幕府の役人や商人たちは、飢饉には目もくれず、あいかわらず私利私欲に走っていました。
世の不正を知った以上、行動を起こさねばならない。
大塩はついに決起します。
1837年(天保8年)2月19日、大塩は仲間の与力や弟子たちとともに、不正を行う役人や商人を討つための戦いを起こします。
幕府の不正をにくみ、庶民(しょみん)を救うために、大塩はあえて激しい行動にうって出たのです。


■ scene 06 老中あての密書

大塩の乱は、結局、幕府側の軍勢によってその日のうちに鎮圧(ちんあつ)されました。
しかし大塩は、武力だけではなく言葉の力でも政治の改革をうったえようとしました。
乱を起こす二日前、幕府の老中あてに密書を送っていたのです。
その内容は、下級役人から老中までもが関わる不正をうったえるものでした。
これが明るみに出れば、事件に関与(かんよ)した人物は一掃(いっそう)され、少しでも清く正しい政治が行われるようになるのではないか。
密書は大塩が幕府につきつけた内部告発であり、腐敗(ふはい)を正す最後の希望だったのです。


■ scene 07 ドキリ★江戸幕府の支配体制が大きくゆらいだ

ところが、この密書は老中の手に届くことはなく、大塩の望みは絶たれます。
逃亡(とうぼう)から40日。
ついに居場所をつきとめられた大塩は、持っていた爆薬(ばくやく)で壮烈(そうれつ)な最期をとげたといわれています。
大塩の乱は幕を閉じましたが、その後、大塩の遺志をつぎ、世直しを求める「打ちこわし」や「一揆(いっき)」が全国各地で起こります。
江戸幕府の腐敗(ふはい)した政治に対する不満が高まり、やがて、幕府をたおそうという運動が高まっていくのです。

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