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天海僧正の健康法。勤行(ごんぎょう)、歩く、粗食、学習

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天海僧正の健康法。勤行(ごんぎょう)、歩く、粗食、学習     *  徳川家康の知恵袋・天海僧正は、会津の武士の生まれです。 生まれつき頑健で、身長も180センチ以上あったようです。 108歳まで生きました。 【※】川越 喜多院の天海僧正は、 徳川家康、2代 秀忠、3代 家光  の  徳川三代に仕え、 政治や宗教で大きな影響を与えました。 天海肖像画。会津美里町公民館前 毎日、実行していたことがあります。 勤行(ごんぎょう)、 歩く、 粗食、 学習 です。 ・朝夕、大声での勤行(ごんぎょう):     大声での発声が健康の元でした。 ・歩く:      天海は健脚でした。     日本中を徒歩で巡っています。 天海僧正の足跡地図 ・粗食:      少食粗食が当たり前でした。 ・学習:     毎日の学習で脳を活性化します。     50歳近くまで留学僧として学びの旅を続けます。    その後も108歳まで学習を続行します。 徳川家康に贈ったことばがあります。 「気は長く      勤めはかたく   色うすく  食ほそうして   心ひろかれ」   (気は長くもって、しっかり働きましょう。 色(欲望)は低く抑えましょう。 少食を旨としましょう。 心は広くもちましょう。) * http://goo.gl/90cq9

1928年の京都会津会

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昭和3年京都会津会秋季例會記念写真 昭和3年(1928)。  同志社社史資料センター蔵 昭和3年(1928)は、会津人にとっては忘れられない年となった。   そもそも同年11月には昭和天皇の即位の礼が行われた。 慶賀に満ちた年である。   御大典に先立つ9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王の婚儀が行われた。 妃殿下になられたのは 旧会津藩主松平容保の6男松平恒雄の長女 。 御成婚に際して、親王実母 貞明皇后の名「節子(さだこ)」と同字であることから、皇室ゆかりの伊勢そして松平家の会津から一字ずつ取り、同音異字の 勢津子に 改めたという。 この御成婚を会津の人々は心からから喜んだ。 「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる勢津子の入輿は、旧会津藩の士族の復権に繋がるものと理解されたのだった。   11月17日、京都会津会 秋季例会が催された。 明治元年(1868)9月22日の鶴ヶ城落城からおよそ60年後、歴史の悲劇を忘れなかった会津の人々は、京都守護職 会津藩主 松平容保が本陣とした黒谷に集ったのだった。 参会した人々は法要後に会津墓地内記念碑前において記念撮影を行った。  参会者の中央には会津 松平家当主 保男、松平恒雄、山川健次郎 など歴史に名を刻んだ人が座している。そして前列左から3番目には八重の姿も見える。   この記念写真の裏面に、八重は一首を書き記した。   <千代ふとも いろもかわらぬ若松の  木のしたかげに 遊ぶむれつる > 何年経たとしても変わらぬ郷土愛のもとに集まる会津人のことを詠っている。60年にものぼる苦難を乗り越えた会津の人々。 その彼らをつないでいたのは、郷土を想う心、そして‘絆’だった。

会津コラム。八重の桜

忠か情かの分れ目 会津の松平容保は京都守護職を引き受ける  白虎隊は「四神(ししん)」から 会津弁 八重の桜> 彰義隊は床几から   秩父宮雍仁(やすひと): 旧会津藩主系の勢津子を妃に 秩父宮勢津子: 会津と朝廷のかけ橋  若松県のはずが福島県に 山川健次郎:白虎隊から明治教育界の重鎮に 福島良一:新島八重は身をもって因習を打破 近藤勇:新しい日本を先取りした新選組の隊長 勝海舟:江戸城を無血開城 戦(いくさ)の天才・蒲生氏郷  山本覚馬は、新島八重の兄で、近代京都生みの親 山本覚馬・常に日本を見据え、戦い続けた不屈の会津藩士 #2 幕末のダ・ビンチ・佐久間象山 八重の桜 展: 八重の生涯   江戸東京博物館 新島八重はハンサムウーマン 新島襄は福沢諭吉、大隈重信とならぶ明治の教育家 西郷頼母(たのも):会津藩最後の家老 彰義隊は床几から 孝明天皇:幕末激動期の天皇。明治天皇の父  松平容保(かたもり):最後の会津藩主 戊辰戦争年表のページ 保科正之:会津23万石の藩祖、3代将軍・家光の弟 蒲生氏郷:戦(いくさ)の天才 あいづっこ宣言 天海僧正が出家した会津の龍興寺 天海、会津でうまれ11歳で僧侶に ◇                    ◆                    ◇ 「極上の会津」映像 会津弁)  【7】 会津食彩文化と体験旅  【6】 静寂の自然と湯巡り旅  【5】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 桑原政則のコラム  Twitter(桑原政則のフェイスブック履歴)

八重の桜>西郷頼母(たのも):会津藩最後の家老

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西郷頼母 ・1830年5月16日- 1903年4月28日没 西郷頼母(1830-1903)は、33歳で会津藩家老になりました。 藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職(しゅごしき、警察の役目)を受ける際に、会津藩滅亡を阻止するために、最後まで反対しました。 戊辰戦争で西軍が会津城下に攻め入った日、妻子ら一族21人は西郷邸で壮烈な自刃を遂げました。 その後、西郷頼母は、会津から脱出し、 榎本武揚や土方歳三らと合流し、函館で再度官軍を迎え撃ちます。 西郷家は、藩祖・保科正之家の分家で、代々家老職を務めました。 菊池氏族でもあります。 西郷頼母・一族の墓には、花がいつも手向けられています。 小説『姿三四郎』のモデルは、西郷頼母の養子でした。 西郷頼母は合気道の祖ともいわれています。 会津武家屋敷は西郷頼母邸を復元したものです。 約400坪の面積、35室の宏大な邸宅です。 会津武家屋敷