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徳川恒孝さん「家康は天下統一後は、街道や河川などのインフラ整備に取り組んだ」 

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徳川宗家の恒孝さん講演 浜松の記念事業フィナーレ (静岡新聞 2015/12/25 )引用編集 徳川家の歴史や功績について公演する徳川恒孝さん 徳川家康公顕彰400年記念事業の浜松部会グランドフィナーレが24日夜、浜松市中区の市福祉交流センターで開かれた。 徳川宗家第18代当主の徳川恒孝さん(75)が徳川家の歴史や功績について講演し、市民ら約600人が耳を傾けた。  徳川さんは家康の足跡を説明しながら、 天下統一を果たした後に最初に着手した事業としてインフラ整備を挙げた。その上で「街道や河川の整備、貨幣や法律の統一など、世の中が平和になって初めて取り組めたことが多かった 」と強調した。  鈴木康友市長と静岡文化芸術大の磯田道史教授は同部会の2年間の取り組みを振り返り、30歳前後の家康を再現した等身大の3D肖像や三方原合戦のジオラマ、立体 しかみ像 の制作などの裏話も紹介した。 26日には、記念事業のエンディングセレモニーが愛知県岡崎市で行われる。

徳川家康の質素の食事を「給食」に。めざし・麦ご飯

【読売新聞、2015/09/19】引用編集 めざし・麦ご飯…「質素」な家康の食事、給食に  江戸幕府を開いた徳川家康(1542~1616)の没後400年を記念し、家康が好んだとされる麦やめざしなどの食材を使った給食が、静岡市内の小中学校で順次、提供されている。  市立安西小学校では17日、「家康の食事」が提供され、児童たちは意外と質素な普段と違う給食を味わった。  18~27日に静岡市で開催される「駿府天下泰平まつり」に合わせ、児童らに静岡ゆかりの家康に食事を通して興味を持ってもらおうと市が企画した。 給食は家康が好んで食べた食事を紹介した本を参考に、児童にも食べやすいように調理された。  17日に安西小学校で提供された献立は、麦入りのご飯、めざしのから揚げ、きゅうりとつぼ漬けのあえ物、根菜をふんだんに使ったみそ汁。 デザートには家康が安倍川餅と名付けたとされる、きな粉餅が提供された。 同校6年の女子児童(12)は「おいしかったけれど、庶民の食事みたいだった。 もっと豪華なものを食べているイメージだった」と驚いていた。  家康は平均寿命が40歳程度だった時代に、数え年で75歳まで生きた大往生だった。 白米よりも硬い麦をよくかんで食べるなど、質素な食事が長生きした一つの要因と考えられている。  家康の食事は静岡市内の小中学校129校で9月中に提供される。 同市清水区の学校では、家康が大漁のイワシを長持ちさせるために作らせたとされる「黒はんぺん」や、家康に献上されたとされる折戸なすも提供される。

徳川将軍 ランキング

徳川将軍 ランキング 5名 初代 家康 :   在職期間は2年ほど 8代 吉宗 :   「享保の改革」を主導。「目安箱」の設置 15代 慶喜 :    大政奉還で近現代史を変える   3代 家光:    参勤交代などで治世を安定させた 5代 綱吉:    「生類憐みの令」 徳川家康 人も金もかけた豪奢な鷹狩りで健康維持 6月8日、1651年。3代将軍・徳川家光 没。 徳川家康が築城の江戸城。当時の構造描いた絵図 発見 【動画】 評価が低い5代徳川綱吉だが… 近年の研究で新たな説 徳川家康の人生は「螺旋的」:安部龍太郎 安部龍太郎が書きたかった「徳川家康」という男。 家康なぜ嫌われる? 平和主義者、軍部の不評買い 『徳川時代の意義』 幕府と会津藩の関係語る 命がけで”武士”を演じる本多忠勝 <藤岡弘、「真田丸」 松平信綱:文官でも合戦に勝てる <童門 冬二 徳川家発祥の地、松平郷 徳川家康:幼時は、織田と今川で人質生活 東海(愛知、静岡、神奈川)の旧分国地図 家康から信頼された出色の武将は榊原康政だった。熊谷充晃 川越・光西寺の大旗(おおはた)が指定文化財に。偏諱(へんき)とは 三浦按針(NK2012/11/5) 浜松城を「出世の聖地」に(NK2012/11/14) 【家康改葬】 家康はなぜ日光で「神」になったか。 川越の禅道場・養寿院の案内 「三方領知替え」で川越藩は庄内、庄内藩は長岡、長岡藩は川越へ。 品川駅は、今川駅だったかまも。大変換の品川駅。 川越藩初代藩主・酒井重忠:「堀川夜討の屏風絵図」を養寿院に寄進 「家康=北極星」により東照宮信仰を確立 東照宮の眠り猫は平和のシンボル 駿府の久能山東照宮 江戸城を守る5寺社 徳川家康:江戸幕府の創設者 徳川家康は260年の平和を構築 江戸時代の偉いところは外国と戦争をしていないこと。浅田次郎 家康改葬:家康はなぜ日光で「神」になったか。Sankei 「気は長く つとめはかたく …」 徳川家康の神号問題 徳川家康が、天皇の国から武士の国へ 家康の夢は、地上天国の実現 徳川家康の年表のページ 徳川家康の関係者 家康が珍重した八丁味噌...

家康改葬:家康はなぜ日光で「神」になったか。Sankei

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2015.1.17-  Sankei  1-8  引用編集は桑原政則 【家康改葬(1)】 家康はなぜ日光で「神」になったか 「江戸の真北」に意味がある 「百物揃千人武者行列」で運ばれるみこし。 約400年前の家康改葬を再現している=昨年10月、日光市山内  「遺体は 久能山 に葬り、 葬儀を 増上寺 で行い、 位牌(いはい)は 大樹寺 に納め、 一周忌が過ぎてから 日光山 に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ」  江戸幕府を開いた徳川家康は元和2( 1616)年、75歳 で亡くなる間際に側近を集めてこう遺言したとされる。  久能山は家康が少年期と晩年を過ごした駿河にあり、江戸の増上寺は徳川氏、三河国の大樹寺は父祖・松平氏の菩提(ぼだい)寺。 下野・日光山だけが生前の家康や徳川氏に特別なゆかりがない。 「東照大権現」として今も人々の信仰を集める家康。 なぜ、日光で「神」として祭られることを望んだのだろうか。  奈良時代後期に勝道上人が開いたとされる日光山は、関東武士の尊崇を集めた山岳信仰の霊場だった。 鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進をしていた が、戦国末期には衰退していた。  源氏の末裔(まつえい)を名乗って東国をまとめ上げ、天下を統一した家康は、 頼朝を尊敬 していた。 慶長18(1613)年には側近だった天台宗の僧・ 天海が日光山の貫主 に就任。 頼朝を意識し、「日光再興」を図ろうとした意図がうかがえる。 ◇  日光は地理的条件にも恵まれていた。 自然の要害で幕府防衛の拠点となる可能性を備えてもいたが、日光東照宮で長年神職を務め、「日光東照宮の謎」などの著作がある高藤晴俊さん(66)=日光市=は「 日光が 江戸から見て、 北極星の輝くほぼ真北の方向 にあったことに大きな意味があったのでは」と指摘する。  北極星は、古代中国で宇宙を主宰する神と認識されていた。 「 天子南面す」の言葉通り、君主は北極星を背にして南向きに座し 、神と一体となって国をつかさどるとされてきた。  日光東照宮陽明門の真上には、夜になると常に北極星が輝いているのが確認できる。 「北極星を背に江戸を守る」という宗教的意義を持った場所として、日光は最適だった。 ◇  「日光市史...

徳川家康は260年の平和を構築

仏教では浄土はあの世にあります。 神道では、この世にあります。 神・家康はこの世を浄土にしようとしました。 幼いころ10数年も人質に取られ、戦乱で苦労した家康にとり、 厭離穢土 欣求浄土(えんりおど ごんぐじょうど) とは、 「戦乱で汚れた世界(穢土)を嫌い、離れ、平和なこの世(浄土)を願いつくる」ことでした。 戦乱のない地上天国の実現が家康の夢でした。 家康は、極楽に行くことを考えていませんでした。 参謀格の天海は、家康の意をくんで、    徳川家康を「東照大権現(とうしょう だいごんげん)」 という平和の守護神にして、260年にわたり、幕府の永続と恒久平和をもたらさんとしました。 ※ 東照大権現 とは? 東方に照る如来が、権(か)りに神となって現れることです。 「権現」とは、仮に仏が神に姿を変えることです。 徳川家康は、北斗七星となり、天を支配しました。 江戸時代は、経済成長一辺倒の無縁社会ではなく、芸術、文化が国民生活に溶け込んだ社会でした。 世界史上めずらしいことです。 少年時代から諸国(現代でいえば、全世界)を巡り歩き、学び、平和な社会の大切さを知り尽くした天海にとって、徳川家康の願いは自分の願いでもありました。

徳川家康の神号問題。天海の権現か崇伝の明神か。

1616年4月2日、徳川家康は病床に、崇伝(すうでん)、天海、本多正純を呼び、遺言を残しました。 1、「遺骸は久能山に埋葬すること」 2、「葬儀は増上寺でおこなうこと」 3、「位牌は、出身地の三河の大樹寺に祀ること」 4、「一周忌が済んだら日光山に小さなお堂を建て勧請すること」 <*  勧請(かんじょう)とは分霊することで、遺骸を移すことではありません。> 家康の神号をめぐって神号問題が起きました。 金地院崇伝(こんちいんすうでん)は明神号を主張しました。 天海は権現号を押し通しました。 天海の言い分です。 「豊臣秀吉は豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)である。 徳川家康も明神ならば、同格となってしまう。」 天海の言い分が通り、 1617年朝廷より徳川家康に東照大権現の神号が勅許されました。 天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。 東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)この世にあらわれている姿ということです。 天海は、徳川王権を固めるために、分霊ではなく、遺骸を移しました。 小さなお堂ではなく、日光東照宮を建立しました。 <* 高藤晴俊は、神号問題はなかった、としています。 >

天海、慈眼大師に

1648年、天海は、死後、慈眼大師(じげんだいし)の追号(ついごう)を朝廷から贈られました。 「大師」とは、国全体の師のことです。 この追号は、5人目700年ぶりの出来ごとでした。 天台宗では、天海は、最澄、円仁、良源といった僧らと共に崇敬されています。 天海以降天台宗では、今に至るまで大師は出ていません。 天海は入寂すると寛永寺から日光に運ばれました。 死して後も、東照大権現を守るためでした。 近くには、家光の霊廟もあります。 家光は、天海を実の祖父のように慕っていました。 家光が自分の廟所(びょうしょ)を慈眼堂のそばに設けたのは、当然のことでした。 慈眼堂

家康の夢は、地上天国の実現

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仏教では浄土はあの世にあります。 神道では、浄土はこの世にあります。 神・家康はこの世を浄土にしようとしました。 幼いころ10数年も人質に取られ、戦乱で苦労した家康にとり、厭離穢土 欣求浄土(えんりおど ごんぐじょうど)とは、「戦乱で汚れた世界(穢土)を嫌い、離れ、平和なこの世(浄土)を願う」ことでした。 戦乱のない地上天国の実現が家康の夢でした。 *     *     * 東照宮の彫刻 徳川家康:江戸幕府の創設者 天海物語 目次 【画像出典】http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/014/592/27/N000/000/000/CIMG6825.JPG

天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立 <天海コラム#5

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天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立  日光陽明門上の北極星と囲む無数の星 日光山の貫主(かんじゅ) 天海僧正は、 山王一実神道(さんのう いちじつ しんとう)といういわば「天海教」により、 家康を北極星と一体化するしかけを施しました。 (神事や 「天海教」は、秘儀性が高い深秘(じんぴ)があります。) 天海は、現実の江戸の世は、家康神を中心に動いていると見立てました。 北極星は宇宙の中心です。 無数の星は北極星をめぐります。 日光東照宮は江戸城の北に位置します。 天子の場所は、北にあるものです。(cf. 「天子南面す」) 江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)の真上に北極星が輝きます。 日光には、太陽を喚起する縁起文字が続きます。      陽明 門(東門)      日光      東照 大権現    家康は、東照大権現(とうしょう だいごんげん)という神 となり、 そして北極星となり、 南の江戸を永遠に守ることになります。 こうして 家康を神とする東照宮信仰が確立 しました。 江戸時代260年の泰平の秘密は、 徳川家康を神にしたことにあります。 戊辰戦争(1868- 1869)でも、 神  家康の東照宮は焼かれませんでした。 ※ 徳川家では、家康だけが神で、 あとの将軍は仏です。 家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。 #1  天海僧正の養生訓。健康法。勤行歩く粗食学習    <天海コラム#1  #2  天海は薬草にも通じていたので、家康の深い信任を得た  #3  天海は、織田信長による比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ。<天海コラム#3 #4  江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4 #5  天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立   <天海コラム#5 #6 

徳川家康の遺訓 「重荷を負うて遠き道を」

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家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」  奥社の家康の墓 東照宮の奥社(おくしゃ)には家康の墓があります。 奥社への途中に家康の遺訓が掲げてあります。 「 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。 急ぐべからず 。 」 続きがあります。 「 不自由を常と思えば不足なし、 心に望み起らば 困窮したるときを思い出すべし。 堪忍は無事長久の基、 怒りは敵と思え、 勝つことばかり知りて、 負けることを知らざれば、 害その身に至る。 己を責めて人を責めるな、 及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」 ◇                    ◆                    ◇ ◇                    ◆                    ◇ 奥社 日光山地図   【メモ】日光めぐりのモデルルート 天海僧正像  神橋(しんきょう)  輪王寺(りんのうじ)の三仏堂、天海の相輪とう 東照宮(五重塔 陽明門 逆さ柱 社殿 神厩舎(しんきゅうしゃ)の三猿 坂下門の眠り猫、家康の奥舎) 山全体がご神体の二荒山(ふたらざん)神社 家光の大猷院(たいゆういん) 天海の慈眼堂

なぜ久能山の東は海?

大きな地図で見る 徳川家康は北極星からやってきます。 これは中国から導入した信仰です。 また、 日本古来からの信仰では、神は東の海からやっています。 沖縄のニライカナイ信仰にその典型が見られます。 <※ 中国は北極星で南北軸、日本は太陽で東西軸です。 龍脈もあります。> 久能山の東方、海と空がひとつになったところに神が日の出とともにのぼり、日暮れと共に西の浄土に沈みます。 太陽が死と再生を繰り返すように、東照大権現(=神家康)も再生する必要がありました。 そのためには、東に海のある久能山が埋葬地である必要がありました。

天海、喜多院、徳川家康 

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喜多院前の天海像 : 境内の慈眼堂(じげんどう)には厨子(ずし)に入った天海の木像が安置されています。 天海を尊宗し信じ切っていた家康は、タカ狩りの時などに天海を訪ねたりしました。 家康は本願寺を東西に分けたように、天台宗を2分しました。 喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。 (京都東北の比叡山は、京都を鎮護しています。) のちに、天海は、江戸をまもるために江戸城東北(鬼門)の上野に鬼門よけのために寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。 山号を喜多院から移し、東叡山寛永寺としました。 喜多院前の日枝神社 川越の日枝神社まえの告知板 仏ばかりでなく、神にも江戸をまもってもらえるようにと、川越に習って、日枝神社も川越から分祀しました。 日枝(ひえ)とは、比叡の神のことです。 (川越は「仏」の喜多院と「神」の日枝神社によって鎮護されていることになります。) 赤坂の日枝神社 家康は将軍職を秀忠に譲っても大御所(おおごしょ)政治を敷き、天海を補佐官にしました。 家康は、タイの天ぷらがあたり、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。 天海もその1人でした。 それほどまでに天海はたよりにされていました。 天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。 伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。 東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(= 権)あらわれている姿ということです。 喜多院内の仙波東照宮 : 宮(ぐう)とは、人間を神としてまつる神社のことです。天満宮(菅原道真)など。 家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。 このうち、 久能山東照宮 、 日光東照宮 、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。 仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。 喜多院の敷地内にあります。もと中院があったところです。 仙波東照宮 このようにして、天海は 家康を、 幕府を、 江...