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越後・長岡藩に手あつい会津人

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殉節 越後長岡藩士の碑 会津若松市 に「殉節(じゅんせつ) 越後長岡藩士の碑」があります。 ここで長岡藩士が手あつく、ほおむられています。 「殉節(じゅんせつ)越後長岡藩士の碑」  *     *     * 山本帯刀(たてわき)は、神童のほまれ高く、武芸にも通じていました。 山本家は、武田信玄の軍師・山本勘助の血を引く名門でした。 山本帯刀(たてわき)は、河井継之助(つぎのすけ)の近くに常にいました。 山本帯刀は、河井継之助の改革を率先実行しました。 1868年戊辰戦争で、河井継之助(つぎのすけ)が負傷して 会津へ300キロ以上の遠行の際も、 しんがりをつとめました。 24歳の山本帯刀(たてわき)を 大隊長とする長岡藩43名は 濃霧の中で敵陣に孤立しました。 山本帯刀たち30数名は生け捕りにされました。 山本帯刀たちは降伏を拒否し、斬首されました。 <*  長岡の牧野藩は 譜代(ふだい) でした。 譜代は、外様(とざま)と違って徳川への忠実を宿命づけられていました。 石高(こくだか)は低かったが,要地に配置されました。 会津藩は 親藩(徳川一族) ですから、徳川そのものでした。 のがれられない「しがらみ」を 背負っていました。> *     *     * 山本帯刀がなくなり、山本家には、跡取りが亡くなりました。 山本五十六(いそろく) が山本家を相続しました。 山本五十六は、のちに大日本帝国海軍、連合艦隊司令長官となりました。 会津で養父・山本帯刀を失い、 会津藩士の娘を妻にした山本五十六にとって、 会津は第2のふるさとでした。 *     *     * 河井継之助は 長岡での流れ弾による破傷風のため、 南会津郡只見町の塩沢で亡くなりました。      河井継之助記念館    福島県南会津郡 只見町 鶴ヶ城では戦争中にもかかわらず 会...