豊国(とよくに)神社の深秘(じんぴ) #2



秀吉の天下のころ、紀州の根来には根来衆(ねごろしゅう)とよばれる僧兵が1万人いました。
根来衆は、家康としめしあわせ、秀吉を責めることを画策していました。

1595年、逆に秀吉は10万もの大軍を宗教都市である根来(ねごろ)に繰り出し、根来寺(ねごろじ)内の2000もの堂舎を焼き尽くしました。

「秀吉の根来攻め」といわれます。
根来寺

1601年、家康は紀州の根来寺(ねごろじ)内にあった智積院 (ちしゃくいん)を京都に再興させます。

智積院には、ほろぼされた根来衆の怨念がこもっています。
しかも新しい智積院は、秀吉が長男捨丸(すてまる)をとむらうために建てた寺の中に建てられました。
智積院


1602年、家康は東本願寺を建立します。
「神 秀吉の道」を断ち切るためです。 

「本願寺」は通称「西本願寺」とよばれています。
「東照宮」とは日光の東照宮の正式名称ですが、「日光東照宮」とよばれているようなものです。
「神宮」とは伊勢神宮の正式名称です。 

1615年、家康は朝廷にお願いして、豊国神社の神号を廃させました。

これで、神 秀吉はなくなりました。 

これで、「不死身」を願って京都の「伏見」に居城を建てた秀吉の夢は消え果てました。

豊国廟(びょう)、豊国神社創立に尽力したのは、梵舜(ぼんしゅん)です。
家康は、梵舜について神道を深く学びました。
秀吉を神にする深秘(じんぴ)を知るに至りました。
のちに、みずからを神にする秘儀も学びました。
梵舜



寺社には深秘(じんぴ)が必要なゆえんです。
    《*家康は豊国廟をこわして豊国大明神の神号は、廃しましたが、東照宮に神ではなく、人間 秀吉をまつりました。》

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