山川健次郎 。白虎隊から東大総長に。Yamakawa Kenjirō 。6月26日没

山川健次郎 。白虎隊から東大総長に。Yamakawa Kenjirō 。6月26日没
山川健次郎

・1854年9月9日。会津若松市 - 1931年6月26日没。76歳

山川家は、会津藩家老でした。

山川健次郎の兄 浩は藩主 松平容保(かたもり)の信任が厚く、
戊辰戦争(ぼしん--。1868年 - 1869年)の時には、家老として籠城戦を指揮します。

妹・山川捨松は、津田梅子と同じく最初の女子アメリカ留学生です。
後に薩摩の大山巌・陸軍元帥の妻となりました。


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山川健次郎は、1868年15歳のとき、白虎隊に編入しますが、若年のため除隊となります。

1871年(明治4年)、イェール大学に留学し、物理学を専攻します。
戊辰戦争で、会津が物理学などの近代科学の知識不足で苦渋をなめたことも原因でした。

孤独と貧窮の中で、不眠不休の研鑽をします。
双肩に一族、会津の運命を担っていました。

26歳で東京大学初の物理学教授となります。

48歳で、東京大学の総長となります。
そのご九州大学、京都大学の総長
を歴任します。

山川健次郎は明治教育界の重鎮でした。
東京理科大学、東北大学の創設にも尽力し、武蔵大学、九州工業大学のトップもつとめました。

田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)、長岡半太郎は、物理学者で直弟子です。
 【※】長岡半太郎、本多光太郎、鈴木梅太郎は、理研の三太郎です。

清廉質素で、破れ長屋に住み続けました。

1928年の京都会津会 山川健次郎も

【名言】

(独白)「武士道は日本固有の思想です。日本の教育にも生かそう」


【補足】

・東京理科大の創設にもかかわりました。退官後も、武蔵大学、九州工大の校長、総裁をつとめました。

・湯川秀樹、朝永振一郎も教え子です。