13  十字軍の時代

13  十字軍の時代

ベリッシモさんによると、イタリアの文化のピークは、古代ローマとルネッサンスであり、
その間にあるのが、暗いイメージの中世だといいます。

今も緊迫した争いが絶えないイスラエルの都市、イェルサレムは、イスラーム教、ユダヤ教、キリスト教の3つの宗教の聖地となっており、いこれまで、この聖地を争奪しようと様々な民族が争ってきました。
その争いの発端となったのが、十字軍でした。



今回のナビゲーター、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世は、シチリア王でもありました。
フリードリヒ2世は「世界の驚異」と呼ばれるほど頭が良く、考え方が3歩先を進んでいたため、周囲を驚かせていたといいます。

今回の舞台は、11世紀から13世紀の西ヨーロッパと地中海地域です。
日本では平安から鎌倉にかけての時代であり、武士の時代になってきた頃でした。

この時代、キリスト教徒は、聖地奪還を目指し十字軍を結成します。
十字軍はイェルサレムを支配していたイスラームの人々と争い、200年にわたって戦いを続けました。

しかし、フリードリヒ2世の時代には、イェルサレムに一時の平和が訪れます。
今回は、現代にも続く宗教対立を生み出したともされる、十字軍の時代を見ていきます。



まずは、十字軍が結成されたいきさつを見てみましょう。
11世紀の西ヨーロッパは、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との叙任権闘争を経て教皇の権威が
強まり、本格的なキリスト教社会になっていました。
人々の宗教熱も高まり、聖地「イェルサレム」を巡礼したいと望む人が増えていました。
しかし、当時、イェルサレムを支配していたのは、イスラーム勢力でした。



そこで当時のローマ教皇ウルバヌス2世は、聖地イェルサレムを取り戻すため、遠征軍を派遣しようと
呼びかけます。
これが十字軍の始まりです。

実は、当時のイェルサレムは、イスラームの支配下にあってもキリスト教徒やユダヤ教徒もおおむね平和に共存できていました。
しかし、教皇は自分の権威を更に高めるために、十字軍を結成したのです。

1099年、第一回十字軍が、イェルサレムに一気に攻め込みます。
イェルサレムにいたイスラーム教徒4万人のほか、ユダヤ教やキリスト教徒など、多くの老若男女が犠牲になりました。

当時の十字軍兵士たちは、たくさんの異教徒を殺すことが宗教的に正しい行いだと思っていたのです。
こうして十字軍はイェルサレムを占領しました。



これはイスラーム世界にとって衝撃的な事件でした。
イスラームの指導者は「ジハード」、つまり異教徒に対する聖なる戦いを呼びかけます。
そしてイスラームが聖地を奪回しますが、これに対し、教皇は再び十字軍を召集します。

こうした十字軍の争いは、数十年おきに繰り返されるようになりました。
当初は、ヨーロッパの人々の信仰心で支えられていた十字軍でした。
しかし、次第に教皇の政治的な野心や、諸侯の領地獲得欲のために行われるようになっていきました。

十字軍でヨーロッパが一丸となっていた時代、フリードリヒ2世が誕生し、時代の流れに反した道を
進むことになります。

ベリッシモさんは、十字軍について、あまり良くない歴史として捉えていると言います。
学校での歴史の授業やドラマでも、裏の思惑や悪いシーンも描かれているそうです。



十字軍の時代、フリードリヒ2世は、キリスト教世界で最も評価が低かった皇帝でした。

フリードリヒは地中海の中心に位置するシチリア王国の王子として生まれました。
わずか3歳で王位についた彼を支えたのは、異文化が共存する世界でした。
当時、シチリアやスペインなどの地中海地域では、異文化の交流が盛んでした。
これらの地域には、様々な勢力が支配してきた歴史があるためです。



シチリアでも、王はキリスト教徒でしたがイスラーム文化を認め、王宮にはイスラーム教徒が多くいました。
彼らの知識や科学技術は素晴らしく、そのおかげでフリードリヒは学問への関心を深めていきました。

更に、王宮では様々な言語が使われていました。
右図の絵にはラテン系の書記やアラブ人の書記、ギリシャ人の書記が描かれています。
ここで育ったフリードリヒは、アラビア語も流ちょうになっていました。
こうして彼は様々な文化に囲まれ、それらを吸収して成長していったのでした。

ベリッシモさんによると、現在のシチリアは、海がきれいなバカンスの島として有名です。
他宗教に寛容だったこともあり、ギリシャの建築やイスラームの文化も残っているといいます。

シチリアは日本でいう沖縄のような場所と言えるかもしれません。
沖縄もリゾート地であり、日本や中国をはじめ、様々な文化の影響を受けています。



ところが、フリードリヒに、突然大きな転機が訪れることになります。
1220年、教皇から神聖ローマ皇帝の冠を授かることになったのです。

そして、イスラーム世界の文化に親しんできたフリードリヒは、
「聖地イェルサレムを征服することをローマ教皇に約束する」
として、十字軍を率いて戦うと誓うことになってしまいました。



神聖ローマ皇帝となったフリードリヒ2世は、十字軍を率いて、イスラーム世界と戦わなければ
ならなくなりました。
相手のアイユーブ朝の君主は、それまで十字軍をことごとく退けてきた英雄 アル・カーミルという人物でした。

幼いころから親しんできたイスラームの世界に憎しみを全く持っていなかったフリードリヒは、
イスラーム教徒と戦いたいと思っていませんでした。

フリードリヒは渋々イェルサレムに向かい、現地で待ち受けていた十字軍に熱烈に歓迎されました。
しかし、彼らの期待に反して、彼は外交交渉に乗り出します。
フリードリヒはアル・カーミルにアラビア語で手紙を書き、率直な気持ちをぶつけました。

その内容は、
「私にイェルサレムを引き渡してくれ。そうしない限り私は国に戻れない。キリスト教徒たちに対して
面目が立たないのだ」
というものでした。

アル・カーミルもイスラーム教徒たちに配慮しなければならない立場であるため、当然難色を示します。



フリードリヒは、粘り強い交渉を続けます。
1229年、5ヶ月にわたる交渉の末に合意にたどりつき、10年間の休戦協定を結ぶことができたのです。

内容は
「第一条、イスラーム王朝の君主アル・カーミルは、神聖ローマ皇帝フリードリヒがエルサレムを
統治することを認める」
というものです。

この休戦協定の第一条は、フリードリヒの要求を全て受け入れた形になっています。

しかし第二条は
「神聖ローマ皇帝フリードリヒは、イスラームの聖地『神殿の丘』を侵してはならない。『神殿の丘』は
イスラームの法に基づき、イスラーム教徒が管理する。」
というものです。

つまりイェルサレムを共に管理しようという、それまでにはない新しい発想でした。

この協定を実現するために、アル・カーミルにかなりの譲歩をしてもらう形になりました。

そのため、もしローマ教皇がフリードリヒを差し置いてイェルサレムを攻撃した時のため、
フリードリヒは第8条にこう記しました。

「キリスト教徒がこの休戦協定に反する行動をとる場合、神聖ローマ皇帝はイスラーム王朝の君主を守る。」

こうして、フリードリヒは一滴の血も流さずに交渉によって、聖地イェルサレムを取り戻すことが
できたのです。
十字軍の歴史の中で、ただ一度のことでした。



休戦協定締結後に、フリードリヒが神殿の丘を訪れてみると、イスラームの祈りが行われなくなっていました。
皇帝は役人を呼び、すぐに以前と同じように祈りを続けるように言います。
イェルサレムに来たら、イスラームの人々の祈りの声を聞きたいと思っていたのです。

しかし、休戦協定を結んだことは、キリスト教世界から激しく非難されます。
アル・カーミルも同じく、イスラーム世界から非難されることとなりました。

10年の休戦の後、争いは再開されてしまいます。
結局、十字軍遠征は200年の間に、合計7回も行われました。
しかし、それでもイェルサレム奪還は失敗に終わり、ヨーロッパの人々の宗教熱は冷めて教皇の権威も衰退していきました



ヨーロッパの人々が、十字軍に参加することには、意味がありました。
人々は一緒の軍隊に参加し、共通のイスラーム教徒を敵にすることにより、一体感を得ることができました。
ヨーロッパの、共同体としての一体感は、彼らの歴史の中で大きな意味を持ったといいます。

しかし一方、十字軍はイスラームの世界には、大きな負の意味をもたらすこととなりました。
それまでのイスラームの人々はとても寛容でした
しかしヨーロッパ人が十字軍として押し寄せ、戦争をすることによって、イスラームの人々の中に
キリスト教徒に対する敵対意識が芽生えてしまいました。

十字軍がもたらした、後の世界に対する影響には、不幸な側面もありました。

十字軍の頃は暗い時代でした。
しかしシチリアに集まったイスラーム文化などがヨーロッパに広がり、この後、華やかなルネッサンスの時代に繋がることになります。

十字軍の戦いから700年経った、2000年3月、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が初めて過ちを認めます。

その言葉は、
「かつて一部のキリスト教徒が、真実に仕えるためにふるった暴力について許しを求めます。
異教徒に対して不信の念を抱き、敵意を持ったことに許しを求めます。」
というものでした。



しかし、イェルサレムをめぐる宗教対立はいまだに根強く残っており、安心して暮らせる状況は
まだ訪れていません。

イェルサレムに住むイスラーム教徒の一人は、
「十字軍との戦いの中で、私たちの家系から340人もの学者たちが、まさに、このモスクで殺されました。
なぜ、そんなひどいことが起きたのかわかりません。しかし何が起きてもここは私の街です。」
と話します。

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