タイ: プミポン国王を歌で追悼。 15万人が賛歌斉唱

タイ プミポン国王を歌で追悼 15万人が賛歌斉唱  NHK

NHK:
今月死去したタイのプミポン国王を歌で追悼する催しが首都バンコクの王宮前で開かれ、およそ15万人が参加しました。
タイでは70年にわたって国を治めたプミポン国王の死去を受けて、全国で追悼ムードが続いています。22日はバンコクの王宮前で国王をたたえる歌を合唱して追悼する催しが開かれ、タイ各地から集まった人たちは警察の発表でおよそ15万人に上りました。

黒い服を身にまとった人たちがプミポン国王の写真や国王の肖像入りの紙幣などを掲げて賛歌を斉唱し、中には涙を流しながら歌う人の姿も見られました。催しに参加した43歳の男性は「プミポン国王への忠誠を表すために来ました。国王は天から私たちを見下ろして、タイの人々がひとつになることを望んでいるはずです」と話していました。

この日の合唱の様子は多くのカメラを使って記録され、タイの映画館で上映前に流すのが慣例の国王をたたえる映像に加えられることになっています。

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タイ 異邦の王から国父へ
2016/10/23付 nk。 highlight

 13日に死去したタイのプミポン・アドゥンヤデート国王(ラマ9世)の治世は第2次大戦後の激動期に、予期せぬ形で始まった。

  絶対王制が続いたタイ。1932年の立憲革命以降、王室は脇に追いやられていた。終戦を機に、タイを取り巻く環境が新たな局面に入った46年6月9日の朝、実兄アナンタマヒドン国王(ラマ8世)が王宮の寝室で、額を銃で打ち抜かれているのが見つかる。同日夕、弱冠18歳のプミポン国王が跡を継いだ。

 事件の真相はいまも不明だ。新旧国王兄弟がよく銃で遊んでいたことが臆測を呼んだ。70年代に英国放送協会(BBC)との会見でプミポン国王は、誤射事故や自殺はあり得ないとしつつ、内外の「有力者」が捜査を封殺したと語った。

 治世早期は様々な意味で異邦の王だった。1927年の生誕地は米マサチューセッツ州。30年代初頭に母親に連れられスイスに移った。即位後もローザンヌ大学で学業を続け、バンコクに定住するのは51年から。即位後しばらくはタイ語よりフランス語を得意とした。

 国の発展と安定の要に王室を据えようと、国王を前面に打ち出したのは1957年のクーデターで首相に就いたサリット陸軍元帥だ。国民は次第に「国王は特別な徳を持つ」として信仰に近い感情を抱くようになる。32年の立憲革命で落ちた王の権威は復活し、国父と慕われるようになっていった

 自ら国内各地を訪れ、医療、教育、灌漑(かんがい)、少数派差別など、タイが抱える問題に直接触れた。55年にはチャクリー朝の王として初めて、「イサーン」と呼ばれるタイ東北部を訪問。王が主導した開発プロジェクトは数千件にのぼる。97年のアジア金融危機の後には、仏教の「足るを知る」考え方に基づき「充足経済」論を提唱した。

 政党による利権政治を嫌い、王制の持続を希求した。軍に対する姿勢は揺れたが、タイ政治にとって最も危険なのは軍の分裂であることも認識していた。32年の革命以来、クーデターは21回にのぼり、13回が成功しているが、クーデター成立に必要な国王の承認を拒否することはなかった。

 73年に軍が学生に銃撃を加えた際は軍事政権トップを国外に追放した。92年にやはり軍が民主派デモ隊に発砲した際は、軍トップを兼務する首相らを王宮で叱責し退陣させた。ただ、共産主義が東南アジアに広がってきた76年に、バンコクのタマサート大学で46人以上の学生を警察や右翼が虐殺した事件では、調停役も判官役も果たせなかった。

 タイ憲政史上最も民主的とされる97年憲法を支持した。信教の自由を重視し、仏教の国教化を避けるよう働きかけた。最長で懲役15年が科せられるタイの不敬罪を「問題」として、廃止を呼びかけたこともある

 21世紀に入りタクシン元首相派と都市部保守派の対立でタイは分裂状態に陥った。そんななか王妃、皇太子のほか、3人の王女を残し、88年の生涯を閉じた。

(Nikkei Asian Reviewアソシエートエディター ドミニク・フォルダー)

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