「三方領地替え」(川越藩主→ 庄内藩主→ 長岡藩主)の命運は?川越藩主 松平斉典(なりつね)

「三方領地替え」(川越藩主→ 庄内藩主→ 長岡藩主)の命運は? 川越藩主 松平斉典(なりつね)
三方領地替え   /2019/08/30  桑原政則
川越藩主・松平斉典(なりつね)は、 川越藩から裕福な庄内藩への移封を画策します。
川越藩 松平家は200億円もの債務をかかえ、 財政破綻状態でした。
なお、川越藩主 松平斉典(なりつね)は、11代将軍 徳川家斉(いえなり)の子を養子に迎えます。今後の布石のためです。
大名は、知事のようなもので、土地持ちではありません。

1840年、川越藩主・松平斉典(なりつね)の画策で、
山形・庄内藩主 酒井忠器(ただかた)は、越後・長岡藩へ
越後・長岡藩主 牧野忠雅(ただまさ)は、武蔵・川越藩へ
武蔵・川越藩主 松平斉典(なりつね)は、山形・庄内藩へ
「三方領地替えの幕命」が出されます。


ひごろ 山形・庄内藩の領民は、庄内藩主 酒井家の善政に感謝していました。
この
領地替えの幕命に、庄内藩の農民たちは、大反対します。
川越藩主の税の取り立てはきびしく、餓死者続出のうわさが広まります。
庄内の領民は江戸にのぼり、命がけの反抗で、幕府に強訴(ごうそ)します。
領民の訴えは江戸の世論をわかせました。


この間、11代将軍 徳川家斉(いえなり、55人の子持ち)が死去(1841/2/27)します。

しかし、農民たちの命がけの運動は続きました。

世にいう 三方領地替え(さんぽう りょうちがえ)の幕命はすんでのところで、 撤回となりました。


なお、川越藩主 松平斉典(なりつね)は、
家臣たちの教育にも力をそそぎ藩校「
博喩堂(はくゆどう)」を江戸藩邸、川越城外に設置しました。

松平斉典(なりつね)の遺徳を偲ぶ「川越百万灯  夏祭り」が毎年開かれています。知恵伊豆・松平信綱に由来する「川越まつり」とならぶ川越二大まつりです。


【参照】
松平直孝,庭野剛治『引っ越し大名 松平大和守家』、前橋学ブクレット28、上毛新聞社

藤沢周平『義民が駆ける』
中村彰彦『北風の軍師たち』 
国立歴史民俗博物館『地鳴り 山鳴り』
黒須繁『武蔵野』351、352



【※】 川越藩主・松平斉典(なりつね)の墓は川越の喜多院にあります。
前橋では、「前橋四公」があります。             秋元 越中守家                          (総社藩 そうじゃはん)
            牧野 駿河守家                         大胡 おおごはん
            酒井雅楽頭(うたのかみ)家 (前橋藩)
            松平大和守家                           (前橋藩)

松平大和守家は、入城後わずか19年で川越城に移ってしまいました。 川越と前橋は、大名で深い関係にあります。 また「引っ越し大名」とやゆされるように、12回もの転封をしました。  

前橋は、京から陸奥(みちのく)へ出るターミナルでした。 古墳が多く出るのも、人の行きかいが盛んだったからでしょう。 その昔 江戸は泥沼、荒野で使えませんでした。


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旧稿
https://kuwabara03.blogspot.com/2014/10/blog-post_6.html

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