尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)。渋沢栄一の学問の師。<渋沢栄一、「青天を衝け」のページ
・1830年7月27日~1901年1月2日
尾高惇忠(おだか じゅんちゅう) / https://upload.wikimedia.org/…Odaka_atsutada.jpg |
尾高惇忠は、渋沢栄一より10歳上で学問の師でした。
尾高家は、渋沢家と縁戚関係にありました。
尾高惇忠には、
長七郎、
ちよ、
平九郎
の弟妹がいました。
惇忠の弟 長七郎(演・満島真之介)は栄一の兄貴分でした。
ちよ(演・橋本愛)は、栄一の妻となりました。
平九郎(演・岡田健史)は、兄たちとともに戊辰戦争に参戦して命を落とすことになります。
惇忠は7歳のころから儒学を学び、 10歳のころからは大川平兵衛(剣豪で川越藩の剣術師範)という剣客に神道無念流の剣術を学び、 まさに文武両道の青年へと成長していきました。
【※】大川平兵衛
大川平三郎。製紙王で郷土に貢献。12月30日没。渋沢栄一の書生 <川越藩の先人。坂戸市
惇忠は、12歳の折に父に連れられて、 水戸藩主徳川斉昭の演習を見る機会を得ました。
この体験をきっかけに、惇忠は徳川斉昭を尊崇し、水戸学や尊王攘夷思想にも強く惹かれるようになりました。
惇忠は17歳になると自宅に私塾「尾高塾」を開き、 近隣の少年たちに学問講義をしました。
7歳になった栄一も、その教え子のひとりになりました。
同じころ、長州で若者たちに体当たりの教育を施していた人物がいました。 松下村塾の吉田松陰です。 松陰は尾高惇忠と同い年齢でした。
松下村塾では、明治政府の屋台骨を築いた多くの俊秀が育ちました。 松陰は、革命家としての自分を貫こうとして、29歳にして命を散らしました。
一方、尾高惇忠は、一橋家に仕えるようになり、
徳川慶喜の家臣となっていた栄一の紹介で、
京都の慶喜のもとに招かれることになりました。
その後は、官界での出世を果たしていた渋沢栄一の求めに応じて、富岡製糸場の初代場長として活躍しました。
【参照】
安田清人(三猿舎代表)「渋沢栄一の最初の師であり、従兄弟である尾高惇忠の幕末と明治以降それぞれの人生【青天を衝け 満喫リポート】」『サライ』
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