松尾鉄城「喜多院、川越・江戸との結びつき」


2011年11月15日、武蔵観研のセミナーが湯遊ランドにて開かれました。

松尾鉄城さんの「喜多院、川越・江戸との結びつき――江戸時代初期、明治時代初期の出来事から」です。

スライドを駆使し、質問には人名地名年号がほとばしりでた楽しいひとときでした。
プロの味を堪能しました。

以下摘録です。 桑原政則


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・ 上野の寛永寺創建とともに東叡山山号が、川越仙波喜多院から江戸上野寛永寺に移されました(寛永2年、1625年)。

・ 寛永15年(1638年)、川越大火によって喜多院が類焼しました。
その再建にあたり、江戸城の家光の御殿(別殿)が喜多院に移築されました。
現在国の重要文化財に。

・ 戊辰の役の上野戦争で寛永寺が全焼しました。
明治9(1876)年~明治12(1879)に掛け喜多院の本地堂を上野に移築しました。
寛永寺の根本中堂(重要文化財)です。



寛永寺は3大将軍家光の時代から徳川将軍に庇護され、
広大な寺域30万5千余坪、寺領11790石、子院36ケ院に及んでいました。

徳川将軍家の宗教的シンボル、祈願寺であり菩提寺でありました。

薩長土肥中心の新政府から弾圧の見せしめとなりました。