高林謙三#2 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師 <川越の先人

高林謙三#2 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師  <川越の先人

高林謙三#1 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師  

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日本の近代産業の発展には、輸出用に大量の茶をつくることが必要でした。
茶の製造の機械化が輸出拡大のために求められていました。
お茶と生糸だけが、輸出できるものでした。

1858年アメリカとの条約が結ばれ、
国はますます貧しくなる一方でした。

ここに27歳の高林謙三は、国家百年の大計、国難のために、
製茶機械の発明を決意したのです。

「茶葉の加工を機械化するしか輸出増加の道はない」と、
私財を投じて、製茶機械開発に全人生を賭けることにしました。

10代のときの師匠・権田直助のことばにもうたれたことでしょう。

「人の病は、国の病より小さい。
まずは国の病を治療することが必要だ」。


後に「茶の増産こそが国家百年の大計である」と
農商務大臣に提出した履歴書にもその思いを記しています。


1869年(明治2年)38歳の時から、高林謙三は数ヘクタールの土地を
喜多院近くに購入し
開墾して実験資料としての茶園の経営をはじめました。



ところで、製茶の機械化は一朝にして
出来るものではありませんでした。

医者を始めた頃にあった相当の財産も、
またたく間に消えてしまい、
自分自身が医者のお世話になるほどになってしまいました。
親類、縁者からも見放され、茶畑すらも
とりあげられる始末となってしまいました。



ついには、医業のかたわらの無理な研究がたたってか、
肺病で喀血しました。



高林謙三は50歳をとうに過ぎていましたが、
医師をやめました。
岩沢家など川越商人の援助を受けながら
製茶機械の製作に没頭しました。

しかし、工程に問題があるなどして、
高林謙三は丹精込めた茶畑など財産を失いました。


その後1885年 54歳の時 専売特許法が施行されると出願し、特許をとりました。
66歳のときには、苦難の末に「茶葉 粗揉(ちゃよう そじゅう)機」を
遂に完成させました。
 【※】粗揉(そじゅう)とは、生葉(なまは)を乾燥させながら茶の香りと光沢を保ちながら、最初に茶葉を乾燥させる工程のこと。

この機械はいまもなお「高林式」の名前をつけて、
全国の製茶工場でつかわれています。
ところがこの機械は地元では、時期尚早で、受け入れられませんでした。

静岡県掛川市で茶業を営む松下幸作、山下伊太郎の2人が、
この機械製造を請け負いました。
彼らは、物心両面から援助の手を差し伸べました。

それまで世に認められなかった高林式製茶機は、
これを機に、人々に知れ渡ることになりました。
丸松製茶場
高林は静岡県に移り住みことにしました。



高林謙三の碑が、喜多院の慈眼堂(天海僧正の堂)に
建てられています。
高林謙三の墓は、喜多院の斎霊殿 門内右側にあり、
市指定史跡となっています。
「製茶機械 発明始祖 高林謙三 先生之墓」

生地の日高市には「製茶機械発明者 高林謙三出生地」
の碑があります。

静岡県菊川市の報恩寺には、「高林謙三 記念石碑」が建っています。



略歴
1832年 - 埼玉県日高市の貧しい農家にして生まれる 1853年 - 毛呂山の権田直助の門下となり、国学と医学を学ぶ 1862年 - 川越藩主松平直克の侍医となる 1869年 - 茶園経営を始める 1898年 - 高林式茶葉粗揉機を完成させる 1899年 - 静岡県菊川市に移住。松下幸作、山下伊太郎とともに工場を設立。 1901年 - 菊川市にて死去

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