1616年、駿河の久能山で臨終にさいして徳川家康は、
・側近の本多正純(まさずみ)、
・崇伝、
・天海
だけをよび、言い残しました。
「自分の遺体は久能山におさめなさい。
1年後に日光山の小さなお堂に
私を勧請(かんじょう)しなさい。
そこから関八州を鎮守しよう。」
勧請とは、ろうそくの火を移すように分霊することです。
1616年、徳川家康は駿河の久能山にほうむられました。
1年後、 徳川家康の遺言は、
分霊どころではなく、
はるかに大規模なものになりました。
徳川家康のひつぎは掘り起こされ、
日光へ移し、
東照大権現という神としてまつられることになりました。
これを企画実行したのが天海でした。
家康は江戸を新しい政治の中心都市にしました。
天海は西の聖地・比叡山に見合う東の聖地を必要としていました。
それが日光東照宮でした。
1622年には上野に新しい寺院の造営にとりかかりました。
寺は、新元号から寛永寺と名付けられました。
山号は川越の喜多院から東叡山をゆずりうけました。
東叡山とは東の比叡山という意味です。
天海は、
江戸城の北方の日光山と
江戸城の鬼門に位置する寛永寺
双方の貫主(かんす、住職)になりました。
1636年には東照宮の全面建て替えを
徳川家光がおこないました。
こうして家康、天海、家光のきずなにより
東照大権現の神威は確固たるものになりました。
天海の死後、1654年には、天皇の皇子(みこ)が
輪王寺宮(りんのうじのみや)として迎えられるようになります。
輪王寺宮は、日光山と寛永寺の貫主(かんす)を兼ねます。
皇族が徳川家を守ることになりました。
こうして、家康と天海がえがいた関東を基盤とした
徳川政権の政治と宗教の万弱の体制が確立し、
260年にわたる世界でもまれな平和な時代を招来することになりました。