菅原道真(すがわら の みちざね)。学問の神様、天神様。3月26日没。

菅原道真。学問の神様、天神様(てんじんさま)。3月26日没

菅原道真  11歳で漢詩をつくる

・845年8月1日~903年3月26日没。59歳。 福岡県太宰府市

菅原道真(すがわら の みちざね)は、平安時代初期の学者、政治家です。
11歳で漢詩をあやつり、神童とよばれました。  
32歳で文章博士となりました。 
学問だけでなく、弓道にも優れていました。
乗馬を好み、馬で役所まで通っていました。


唐から学ぶものがないとして、遣唐使を廃止させました。

        【※】遣唐使の廃止
            これにより、かな文字が生まれ、紫式部、清少納言の女性文学が誕生しました。

藤原氏絶頂の時に、宇多天皇の信任が厚く、異例の右大臣に昇進しました。

        【※】左大臣のつぎに右大臣
 左近の桜(さこんのさくら)は、正殿(天皇)から見て左にあった桜の樹です。
右大臣は、左大臣の次に天皇を助ける役目です。 古事記でも、左は右より格上です。
イザナキの左目からアマテラスが生まれ、 右目からはツキヨミが、
鼻からスサノオ生まれました。


左大臣は、藤原時平でした。
901年、藤原時平の陰謀により九州の太宰府(だざいふ)にとばされました。

    【※】太宰府
太宰府は、九州をおさめる役所があるところです。


住まいは雨ももり、床も朽ちているようなあばら家でした。
菅原道真は、病気を多発し、
2年後に無念のうちに没します。
菅原道真の子ども4人も流刑されました。

菅原道真の代表歌です。京を去るときに詠みました。

     ♪♪~  東風(こち)吹かば  にほひおこせよ  梅の花
    主(あるじ)なしとて  春な忘れそ

<(京の梅の花よ)  東の風が吹いて来たら、香りを九州の私のところまで届けておくれ。
主人が居なくなったからといって、春を忘れてはいけませんよ)


道真の死後、藤原時平などの陰謀関係者に死や不幸が訪れます。

後醍醐天皇は、菅原道真の怨霊を恐れ、
たたり封じのために天満宮(てんまんぐう)を建立(こんりゅう)
しました。


 菅原道真はいつしか天神(てんじん)さまとなり、
学問の神様に祭り上げられるようになりました。

    【※】天神(てんじん)
    =天の神。あまつかみ。⇒菅原道真を祭った神社。天満宮。
    【画像】北野天神縁起絵巻: 道真の怨霊(おんりょう) 


【菅原道真のたたりの例】
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菅原道真没後、地震洪水火災変死などの天変地異が京都を襲いました。

908年。道真の無実を訴えに来た上皇を邪魔した貴族が変死
909年。道真を朝廷から追放した首謀者の藤原時平は39歳で病死
910年。洪水
911年。洪水
912年。大火
913年。道真の後任の右大臣死去。大風で多数の民家崩壊
914年。大火
915年。水疱瘡が大流行
917年。渇水
918年。洪水
922年。咳病が大流行
923年。藤原時平の妹と天皇の間に生まれた保明(やすあきら)親王が21歳で死亡
925年。保明親王の子供が死去
930年。内裏(だいり、天皇の御殿)に落雷があり、数人の貴族が死去。醍醐天皇はこのショックで3ヶ月後に死亡


菅原道真  ~日本文化の生みの親~ 【+14】


天満宮  (大阪)天満(てんま)は、大阪の地名です。
北野天満宮 (京都)









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【追記】 
「くわばら、くわばら」の由来は

京都御所のすぐ南(中京区)に桑原町(くわばらちょう。地図)がありました。
桑原町には、菅原道真の屋敷がありました。

ここには桑の木々があり、かみなりがここには落ちませんでした。

いつしか「 ♫ クワバラ   ♫ クワバラ 」ととなえると、
かみなりが落ちないと信じられるようになりました。

雷除けの「くわばら、くわばら」の由来は?